マラウイの南部の村

またしばらく、みくしかけずにいました。

無事に、 マラウィの南部から、
モザンビークに入国できました。

マラウイは、人口の65%が1ドル以下で
生活しているっていわれている貧しい国です。
HIVと食糧不足もとても深刻なようです。


でも、笑顔 たくさんなあったきがします。

マラウイの南部の町、
すごくのどかで
湖が目の前なので、
みんな服や食器を洗ったり、体を洗ったり、
魚をとったりしています。
ちょうど1ヶ月間マラウイにいましたが、
本当にマラウイの人はおだやかで、
人懐っこくて 笑って 歌っている
イメージです。

停電も毎日何回もしますが、
停電のときに真っ暗闇の
小さな町や村から
見上げる夜空は、
本当に星がたくさんできれいすぎて
とても感激します。

英語が通じるので1ヶ月いて覚えた
チェチェワ語は、
挨拶とありがとうと、
「ネネス コンゴーラ」 (星、きれい。)だけです。

数時間の停電後、
町に明かりが突然つくと、
みんな歓声を毎晩あげてます。

でも、逆に停電してしまう瞬間も
歓声をあげます。ため息まじりですが・・。
でもその後笑いもおこって、
本当にこんなに毎日停電だと、たいへんだなー
って思っていたのですが、

意外に電気がついたつかないで
わいわいしているみんなをみて
のどかだなーっいいなーって
思っていました。
村に住んでいる人たちは、
もちろんいつも電気ありませんが。。

この小さな町にきた、
旅行者の欧米人の子が1年で二人,マラリアで
亡くなったそうです。
一人は、宿の小さなシングルの部屋で
しばらく誰にも気づかれずに亡くなっているのを
数日経ってから発見されたそうです。
 
いつかかかるだろうって思って
まだかかってないマラリア、
モザンビークにはたくさんいるようで
どきどきしてます。
 
ガーナに仕事で2年行ってた、イタリア人の男の子、
「2年で15回マラリアなったよ。
慣れれば、高熱の風邪みたいなもんだよー。
発見早くないと危ないけどね、、」
って教えてくれたの思い出しました。

南部の村、その村にいくには、
近くの小さな町から
自転車タクシーにのっていくのですが、
そこで、10代後半のエマンという女の子に会いました。
 
その子のおうちに招待してくれて、
何回か遊びにいっていました。

エマンは、5ヶ月の赤ちゃんがいて、
その赤ちゃんと親戚のかたと
その子供たちと住んでいました。
 
エマンは
「マラウイのブラットタイヤ(マラウイの商業都市)に
住んでいたの。
でも赤ちゃん 出来ちゃって、
親がとても怒って、
ここにいる親戚の人と住みなさいって、
赤ちゃんの父親は、
今はどうしているか知らない。」
  
って話してくれました。 

その男の子は、
このかわいい赤ちゃんのこと知っているの?
ききたかったけど、
なんだか聞いちゃいけない気がしてきけませんでした。
 
大きなお魚、釣ってくれて、火をおこして
お料理してくれて、近所の子供たちみんなで
食べたり、遊びました。 
 
エマンの親戚の子供のひとり、3歳になる女の子、
すごくかわいらしいジョハネっていう子で、
この村にいると
子供たちが20人以上常によってきて、
私の手を握ろうと取り合いになります。
一本の手で同時に
5人の子達と手をつなぎながら
歩いたりしていました。
 
この子も私が話しかけるとすごく嬉しそうに
恥ずかしそうにしていました。
 
村から最後にばいばいするときに、
エマンがジョハネに、
「さやか、モザンビークにいくの。だから
お別れだよ」って伝えると、
うぎゃーって赤ちゃんみたいに泣き出して
私も本当泣きそうでした。
  
バイバイするとき、エマンが、
 
「私、間違えちゃったの。
私、村はすきじゃないよ。
電気も水道もないし。
早く、町に帰りたい。
私は、ここで、毎日、どうしていいかわからないの。
私大きな間違えしちゃったの・・。」

突然、なんでもあった都市の生活から、
なんにもない村の生活はきっと同じ国内でも
大きな変化で、英語を流暢に話すエマンの会話の中からも、
きっと頭が良い子なんだろうなってこともわかりました。

赤ちゃんを育てることどれだけ大変か、
日本にいるお友達や、
エチオピアでみた、まだまだ若いママたちをみていたし、
あとエマンが
水を離れたところまで汲みにいって、
重たいお水の入った大きなタライ、頭にのせて
赤ちゃん、大きな布で自分の体に
包んで背負って、暑い中、
1日何往復もしていることや、
お料理して、お掃除して、
親戚のたくさんいる子供たちの
面倒までみて、すごくたいへんなのは
数日一緒に過ごしただけですが、
わかっていました。

「間違えなんてしてないよ。エマン,毎日頑張っているよ。
エマンお仕事たくさんだけど、
こんなにかわいい赤ちゃんに出会えたよ。
きっと強くて、優しい男の子になるよ。」

っていうと、
「うん。ありがとう。 そうだね。
そうだね。 私もそう思う。」
って最後に笑ってくれました。
 
今日も、毎日たくさんの村の子供たちに囲まれて
頑張っているんだろうなって思います。
またいつか会いに行きたいって思います。
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バイユシのこと。

いつも、ぽつんと一人で、
ヤンキー座りをして
日向ぼっこをしている子がいました。

バイユシってゆって
少しだけ変わった顔立ちをしていました。

体はがりがりで、
髪はエチオピアの子にしては珍しく、
そこまでグリグリした髪質ではありませんでした。
目がとても大きく、男の子のような顔立ちで、
目つきが鋭い印象でした。

いつも私がそばを通って挨拶すると、

挨拶もせずに、
「チャラカースウィーツっがたべたい 。
ちょうだいよー]といつもおねだりしてきてきました。

「最初にあったらおはようだよー
バイユシ。おはよう-。
バイユシは、自分で何でも食べれるし、
ひなたぼっこもできるからだめー
具合が悪い子だけだよ。ごめんね。
それに きのう、キャンディー支給されたでしょー」

いつも
「ちゃらか 意地悪―ぶさいくー」
って
ゆってそばをうろちょろするかんじでした。

彼女もHIVポジティブで
股間に大きな腫瘍がありました。
この腫瘍のせいで、
しっかり椅子やベットに座ることが出来ず、
いつもヤンキー座りでした。

他の患者さんとそこまで交流を持ちたがらず
いつも一人でいました。
この子の腫瘍も少しずつ成長してしまっていました。

最初の 3ヶ月ほどは、
ひたすらアディスの施設にいたのですが、
ひとりの女の子のが亡くなったのをきっかけに、
あと女性の棟で働ける新しいボランティアのかた
がきてくれたのもあって、

私はアディス以外の場所
みんながいう、村やほかの場所も
みてみようと思って
地方にある施設にいくように
なりはじめたときでした。

ある時、1週間だけ南部の施設に
お手伝いにいって戻ってきました。

いつも外で日向ぼっこしていたバイユシが
ベットに横になっていたので
おかしいなって思って話にいくと、

[ちゃらかー いきなりね、朝起きたら
両手も両足も体が動かなくなったの。
頭だけは大丈夫。]っていいます。
あんまりに突然のことで。

バナナが大好きだったからゆっくり食べさせてあげて
すごく食欲はあって少し ほっとしました。

HIVのことが気になりましたが、一時的なものだといいけ
ど、、って思いました。

それから少しして
今度は北部の施設にお手伝いにいくことになりました。
バイユシに[あと1週間で帰るからね。待っててね。]
っていいました。

バイユシは、
[次の日曜日に帰ってくるんだねっ]
て念を押して聞いてきました。

わたしは、[ うん。 日曜日に戻るからね。]
って答えました

私もそのつもりだったのですが、
戻ってきたのは10日後でした。
途中でもらったバラの花
バイユシに上げようと思って、
夜、アディスについて,
急いで
バイユシのところにいくと、
違う患者さんでした。
うそって思ってみんな に聞くと
みんないつものように
一生懸命嘘を
ついてくれているのがわかりました。

[バイユシ いつ...どんな風だった...]
ってゆっくりきくと
日曜日だよっていいました。

あって思いました。
バイユシ約束どおり
私が帰ってくるの待っていたんだって思いました。

[ バイユシ いつも今日、
日曜日?って毎朝,聞いてきていたよ。]って。


少しの用事でアディスに帰ってくるのが
遅くなって約束を破ってしまった形になって。

静岡の親友が亡くなる前,
私が会いに来るのをまっていてくれたとき、
私の母親が、病気で待っている人にとって、
待つってゆう時間は
恐ろしいほど長いんだよ。
っていった言葉思い出しました。

1週間バイユシにとったら
すごく長くて、遠かっただろうなって
思いました。

軽はずみに1週間っていっって
戻ってこなかった自分が
本当なにやってんだろうって
思いました。

なんであのとき、違う施設いったんだろう。
なんで、あのとき、早く帰ってこなかったんだろう。

いつもこういう風なことの繰り返しで
いつも罪悪感と後悔で
いっぱいでたまらないくせに
また同じようなこと繰り返して。


マラウィは今は 雨期が終わって、
日中は日差しが強いですが、
冬に向かっている感じです。
朝晩、吐く息が白くなりました。
それでも蚊がたくさんいます。

今日は、9歳からの親友の亡くなってしまったけど、
28回目の
お誕生日です。
あとから、おばさんに
電話いれてみようと思います。
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国の人口。

エチオピアにいた時、

広い視野で物を考えれずにいました。
目の前のことだけで精いっぱいで。

でも、今エチオピアを離れて、
今振り返ってみて、
思うこと、考えること、たくさんあります。
広い目線で、HIV、国のこと、考えたり、
尋ねたり、疑問に思ったり、調べたり。

ナイロビのあと、
バスでタンザニアに向かいました。
ここで、地方自治体の方たちが
HIVの方たちを
支援している施設あって
少しばかりの寄付金をおいてこようと思って、
あとお話もきいてみたくて訪ねてみました。
 
ここの施設では、無料で毎日血液検査を
実施していて、
その待っている間、
HIVがどんな風な病気で、
感染についてのこと、
けして差別や誤解をうまないように、
しっかりした知識を。
そういう
ビデオをひとつテレビがあって流していました。

私が訪れた日も
たくさんの人が待っていました。
タンザニアでは、医療費は無料だということ。
 
教育も無料だということ。
学校に通うにあたって
必要な教科書代だったりも
支援する団体がここ数年で
たくさんできて、
かなり進学率があがったこと。
 
タンザニアでは、
レプラシー(ハンセン病)のかた
が多かったように思います。
 
でもタンザニアも、ケニアも
マラウィもエチオピアに比べると
ぐっと路上のかたが
少なくて、少しほっとしました。
 
ふと、人口ってどうやって数えているんだろうって
思いました。

この施設の責任者の女性にきいてみました。
 
そしたら、
「10年に一度、一軒一軒数えにいくのよ。
前回、2002年だったから次は、
2012年ね。」
って教えてくださいました。

出生届も死亡届もないし、
コンピューターで
管理はまだまだとても
先のことのような気がします。
 
でもこの一軒一軒いくのも
実はかなりおおざっぱで、
村が遠かったりして、
適当にあの村やこの地域は、
だいたいこれぐらいー
っていうのが本当のところのようです。

この待合室で、最初に責任者のかた、
ちょっとどきどきしながら
いすにすわらせてもらって
まっていたら、
ぼろぼろのポスターが壁に貼ってあって、

=誰も一人ではすべてのこと、できないけど
誰でもなにかひとつのことはできるよ。=

ってかいてあって
忘れちゃいけないなって思いました。

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名前。

エチオピアの施設で、
新しく運ばれてきた30代ぐらいの女性に、

「こんにちは。
お名前なんですか?」って
いつもの感じでききました。

少し不思議そうな顔をしていたので、
アムハラ語じゃなくて、おろも語のかたかな?
って思って、
おろも語で尋ねてみても、
きょとんとしていて

あーもしや、しだみんにゃ語、ぐらげ語、
もしやてぃぐりんにゃ語かな。。
 
どの子がしゃべれたかなって思いました。

エチオピアには、
70以上の言語 存在しています。

アディスでは
あむはら語かおろも語が主でしたが、

ときどき、
自分のすんでる一帯で使われている言葉のみの
かたもいました。

どの子に通訳お願いしようかなって、
思っていたら、
名前答えてくれました。

アムハラ語わかるようだったので
あれ? とおもっていたら、
 
なにかつぶやいて、
そばにいた他の患者さんが、

「ママ、久々にひとから
名前きかれたんだって。」
て教えてくれました。

それから
「ワァーガナシママ、お夕飯だよー」

ってお夕飯のプレート
持っていってあげると、
すごくうれしそうな顔をして、

「ありがとう。」っていった
あとなにかいってくれて
 
でもまた私は、
理解できなくて、
隣にいた患者さんが、

「久々に人から名前呼んでもらえた。」
っていってるよ。
 
って教えてくれました。
 
最初に運ばれてきたママを見た時、
長い間、
路上で過ごされていたんだろうなって
わかる格好でした。


このときから、
現地の言葉を覚えることも大切だけど、
まず最初にみんなの名前
しっかり覚えようって
思って、それから、
一人ひとりみんなに名前をきいて
わすれないようにメモして
おぼえていきました。

誰も自分の名前呼んでくれないこと、
きっとものすごくさみしいことだろうなって
おもいました 。
| ボランティア | comments(0)

医大生。

アディスにある大きな病院。

そこには、びっくりするぐらい
ドクターの勉強をしている
エチオピアの子たちがいます。

アディスにもメディカルスクール思ったより
たくさんあるような気がします。

みんな英語で医療のこと勉強します。

たくさんの子たちが、
ドクターやナースになって、
外国で働くことを目指しています。

秋にいた時、
町中の、お店に 2008 DV !!
っていう紙が貼ってありました。
 
USのグリーンカード取得応募紙です。

応募するために必要な写真の費用や
切手の費用が用意できるかたは、
みんな応募しているんじゃないかって
いうぐらいみんなみんな、募集していました。

エチオピアのお給料と格段の違いがあるため、
みんなどんどんチャンスがあればでていきます。

エチオピアのお医者さんでも
個人差はでありますが、
700ブル(9000円)
ぐらいの月給のようです。

「日本はお医者さんは月にいくらもらえるの?
ビザ難しいかな? 」
 
何度かエチオピアの医大生やお医者さんにも
された質問です。

親類の中、たったひとりでも、外国にいけたら、
親類一同助かるってみんな考えて願っています。

国がもう少し、お給料払ってあげれたら
きっと少しでも何か変わるんじゃないかなって
思いました。
 
エチオピアには、患者さんがとても多いって
いうのもありますが、
たくさんメディカルスクールはあるのに、
医療関係者の不足なのはこれも原因のひとつなんじゃ
ないかなって思います。

もちろん、この国でとてもがんばっているこの国の
医療関係者のかたもたくさんいますが。

ケニアの施設にいたとき、
患者さんたちに囲まれて、
若い男の子が手当をしていました。

お手伝いしながら、話をしていて、
ドクターになるために
今大学に通っていて、
ボランティアで勉強の意味も含めて施設で
働いているよって教えてくれました。


見た目は今時の男の子なおしゃれな雰囲気で

でも 一生懸命、ゆっくりゆっくり
丁寧に手当してあげていて。

ふと、「卒業したらどこで働くの?」って
きくと、

「みんな欧米諸国にいきたがるけど、
ぼくは 、この国でしっかりした
医者になりたいんだっ]って。

 
なんだかとても感動しました。
| ボランティア | comments(0)
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