マラウイの南部の村

またしばらく、みくしかけずにいました。

無事に、 マラウィの南部から、
モザンビークに入国できました。

マラウイは、人口の65%が1ドル以下で
生活しているっていわれている貧しい国です。
HIVと食糧不足もとても深刻なようです。


でも、笑顔 たくさんなあったきがします。

マラウイの南部の町、
すごくのどかで
湖が目の前なので、
みんな服や食器を洗ったり、体を洗ったり、
魚をとったりしています。
ちょうど1ヶ月間マラウイにいましたが、
本当にマラウイの人はおだやかで、
人懐っこくて 笑って 歌っている
イメージです。

停電も毎日何回もしますが、
停電のときに真っ暗闇の
小さな町や村から
見上げる夜空は、
本当に星がたくさんできれいすぎて
とても感激します。

英語が通じるので1ヶ月いて覚えた
チェチェワ語は、
挨拶とありがとうと、
「ネネス コンゴーラ」 (星、きれい。)だけです。

数時間の停電後、
町に明かりが突然つくと、
みんな歓声を毎晩あげてます。

でも、逆に停電してしまう瞬間も
歓声をあげます。ため息まじりですが・・。
でもその後笑いもおこって、
本当にこんなに毎日停電だと、たいへんだなー
って思っていたのですが、

意外に電気がついたつかないで
わいわいしているみんなをみて
のどかだなーっいいなーって
思っていました。
村に住んでいる人たちは、
もちろんいつも電気ありませんが。。

この小さな町にきた、
旅行者の欧米人の子が1年で二人,マラリアで
亡くなったそうです。
一人は、宿の小さなシングルの部屋で
しばらく誰にも気づかれずに亡くなっているのを
数日経ってから発見されたそうです。
 
いつかかかるだろうって思って
まだかかってないマラリア、
モザンビークにはたくさんいるようで
どきどきしてます。
 
ガーナに仕事で2年行ってた、イタリア人の男の子、
「2年で15回マラリアなったよ。
慣れれば、高熱の風邪みたいなもんだよー。
発見早くないと危ないけどね、、」
って教えてくれたの思い出しました。

南部の村、その村にいくには、
近くの小さな町から
自転車タクシーにのっていくのですが、
そこで、10代後半のエマンという女の子に会いました。
 
その子のおうちに招待してくれて、
何回か遊びにいっていました。

エマンは、5ヶ月の赤ちゃんがいて、
その赤ちゃんと親戚のかたと
その子供たちと住んでいました。
 
エマンは
「マラウイのブラットタイヤ(マラウイの商業都市)に
住んでいたの。
でも赤ちゃん 出来ちゃって、
親がとても怒って、
ここにいる親戚の人と住みなさいって、
赤ちゃんの父親は、
今はどうしているか知らない。」
  
って話してくれました。 

その男の子は、
このかわいい赤ちゃんのこと知っているの?
ききたかったけど、
なんだか聞いちゃいけない気がしてきけませんでした。
 
大きなお魚、釣ってくれて、火をおこして
お料理してくれて、近所の子供たちみんなで
食べたり、遊びました。 
 
エマンの親戚の子供のひとり、3歳になる女の子、
すごくかわいらしいジョハネっていう子で、
この村にいると
子供たちが20人以上常によってきて、
私の手を握ろうと取り合いになります。
一本の手で同時に
5人の子達と手をつなぎながら
歩いたりしていました。
 
この子も私が話しかけるとすごく嬉しそうに
恥ずかしそうにしていました。
 
村から最後にばいばいするときに、
エマンがジョハネに、
「さやか、モザンビークにいくの。だから
お別れだよ」って伝えると、
うぎゃーって赤ちゃんみたいに泣き出して
私も本当泣きそうでした。
  
バイバイするとき、エマンが、
 
「私、間違えちゃったの。
私、村はすきじゃないよ。
電気も水道もないし。
早く、町に帰りたい。
私は、ここで、毎日、どうしていいかわからないの。
私大きな間違えしちゃったの・・。」

突然、なんでもあった都市の生活から、
なんにもない村の生活はきっと同じ国内でも
大きな変化で、英語を流暢に話すエマンの会話の中からも、
きっと頭が良い子なんだろうなってこともわかりました。

赤ちゃんを育てることどれだけ大変か、
日本にいるお友達や、
エチオピアでみた、まだまだ若いママたちをみていたし、
あとエマンが
水を離れたところまで汲みにいって、
重たいお水の入った大きなタライ、頭にのせて
赤ちゃん、大きな布で自分の体に
包んで背負って、暑い中、
1日何往復もしていることや、
お料理して、お掃除して、
親戚のたくさんいる子供たちの
面倒までみて、すごくたいへんなのは
数日一緒に過ごしただけですが、
わかっていました。

「間違えなんてしてないよ。エマン,毎日頑張っているよ。
エマンお仕事たくさんだけど、
こんなにかわいい赤ちゃんに出会えたよ。
きっと強くて、優しい男の子になるよ。」

っていうと、
「うん。ありがとう。 そうだね。
そうだね。 私もそう思う。」
って最後に笑ってくれました。
 
今日も、毎日たくさんの村の子供たちに囲まれて
頑張っているんだろうなって思います。
またいつか会いに行きたいって思います。
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バイユシのこと。

いつも、ぽつんと一人で、
ヤンキー座りをして
日向ぼっこをしている子がいました。

バイユシってゆって
少しだけ変わった顔立ちをしていました。

体はがりがりで、
髪はエチオピアの子にしては珍しく、
そこまでグリグリした髪質ではありませんでした。
目がとても大きく、男の子のような顔立ちで、
目つきが鋭い印象でした。

いつも私がそばを通って挨拶すると、

挨拶もせずに、
「チャラカースウィーツっがたべたい 。
ちょうだいよー]といつもおねだりしてきてきました。

「最初にあったらおはようだよー
バイユシ。おはよう-。
バイユシは、自分で何でも食べれるし、
ひなたぼっこもできるからだめー
具合が悪い子だけだよ。ごめんね。
それに きのう、キャンディー支給されたでしょー」

いつも
「ちゃらか 意地悪―ぶさいくー」
って
ゆってそばをうろちょろするかんじでした。

彼女もHIVポジティブで
股間に大きな腫瘍がありました。
この腫瘍のせいで、
しっかり椅子やベットに座ることが出来ず、
いつもヤンキー座りでした。

他の患者さんとそこまで交流を持ちたがらず
いつも一人でいました。
この子の腫瘍も少しずつ成長してしまっていました。

最初の 3ヶ月ほどは、
ひたすらアディスの施設にいたのですが、
ひとりの女の子のが亡くなったのをきっかけに、
あと女性の棟で働ける新しいボランティアのかた
がきてくれたのもあって、

私はアディス以外の場所
みんながいう、村やほかの場所も
みてみようと思って
地方にある施設にいくように
なりはじめたときでした。

ある時、1週間だけ南部の施設に
お手伝いにいって戻ってきました。

いつも外で日向ぼっこしていたバイユシが
ベットに横になっていたので
おかしいなって思って話にいくと、

[ちゃらかー いきなりね、朝起きたら
両手も両足も体が動かなくなったの。
頭だけは大丈夫。]っていいます。
あんまりに突然のことで。

バナナが大好きだったからゆっくり食べさせてあげて
すごく食欲はあって少し ほっとしました。

HIVのことが気になりましたが、一時的なものだといいけ
ど、、って思いました。

それから少しして
今度は北部の施設にお手伝いにいくことになりました。
バイユシに[あと1週間で帰るからね。待っててね。]
っていいました。

バイユシは、
[次の日曜日に帰ってくるんだねっ]
て念を押して聞いてきました。

わたしは、[ うん。 日曜日に戻るからね。]
って答えました

私もそのつもりだったのですが、
戻ってきたのは10日後でした。
途中でもらったバラの花
バイユシに上げようと思って、
夜、アディスについて,
急いで
バイユシのところにいくと、
違う患者さんでした。
うそって思ってみんな に聞くと
みんないつものように
一生懸命嘘を
ついてくれているのがわかりました。

[バイユシ いつ...どんな風だった...]
ってゆっくりきくと
日曜日だよっていいました。

あって思いました。
バイユシ約束どおり
私が帰ってくるの待っていたんだって思いました。

[ バイユシ いつも今日、
日曜日?って毎朝,聞いてきていたよ。]って。


少しの用事でアディスに帰ってくるのが
遅くなって約束を破ってしまった形になって。

静岡の親友が亡くなる前,
私が会いに来るのをまっていてくれたとき、
私の母親が、病気で待っている人にとって、
待つってゆう時間は
恐ろしいほど長いんだよ。
っていった言葉思い出しました。

1週間バイユシにとったら
すごく長くて、遠かっただろうなって
思いました。

軽はずみに1週間っていっって
戻ってこなかった自分が
本当なにやってんだろうって
思いました。

なんであのとき、違う施設いったんだろう。
なんで、あのとき、早く帰ってこなかったんだろう。

いつもこういう風なことの繰り返しで
いつも罪悪感と後悔で
いっぱいでたまらないくせに
また同じようなこと繰り返して。


マラウィは今は 雨期が終わって、
日中は日差しが強いですが、
冬に向かっている感じです。
朝晩、吐く息が白くなりました。
それでも蚊がたくさんいます。

今日は、9歳からの親友の亡くなってしまったけど、
28回目の
お誕生日です。
あとから、おばさんに
電話いれてみようと思います。
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国の人口。

エチオピアにいた時、

広い視野で物を考えれずにいました。
目の前のことだけで精いっぱいで。

でも、今エチオピアを離れて、
今振り返ってみて、
思うこと、考えること、たくさんあります。
広い目線で、HIV、国のこと、考えたり、
尋ねたり、疑問に思ったり、調べたり。

ナイロビのあと、
バスでタンザニアに向かいました。
ここで、地方自治体の方たちが
HIVの方たちを
支援している施設あって
少しばかりの寄付金をおいてこようと思って、
あとお話もきいてみたくて訪ねてみました。
 
ここの施設では、無料で毎日血液検査を
実施していて、
その待っている間、
HIVがどんな風な病気で、
感染についてのこと、
けして差別や誤解をうまないように、
しっかりした知識を。
そういう
ビデオをひとつテレビがあって流していました。

私が訪れた日も
たくさんの人が待っていました。
タンザニアでは、医療費は無料だということ。
 
教育も無料だということ。
学校に通うにあたって
必要な教科書代だったりも
支援する団体がここ数年で
たくさんできて、
かなり進学率があがったこと。
 
タンザニアでは、
レプラシー(ハンセン病)のかた
が多かったように思います。
 
でもタンザニアも、ケニアも
マラウィもエチオピアに比べると
ぐっと路上のかたが
少なくて、少しほっとしました。
 
ふと、人口ってどうやって数えているんだろうって
思いました。

この施設の責任者の女性にきいてみました。
 
そしたら、
「10年に一度、一軒一軒数えにいくのよ。
前回、2002年だったから次は、
2012年ね。」
って教えてくださいました。

出生届も死亡届もないし、
コンピューターで
管理はまだまだとても
先のことのような気がします。
 
でもこの一軒一軒いくのも
実はかなりおおざっぱで、
村が遠かったりして、
適当にあの村やこの地域は、
だいたいこれぐらいー
っていうのが本当のところのようです。

この待合室で、最初に責任者のかた、
ちょっとどきどきしながら
いすにすわらせてもらって
まっていたら、
ぼろぼろのポスターが壁に貼ってあって、

=誰も一人ではすべてのこと、できないけど
誰でもなにかひとつのことはできるよ。=

ってかいてあって
忘れちゃいけないなって思いました。

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名前。

エチオピアの施設で、
新しく運ばれてきた30代ぐらいの女性に、

「こんにちは。
お名前なんですか?」って
いつもの感じでききました。

少し不思議そうな顔をしていたので、
アムハラ語じゃなくて、おろも語のかたかな?
って思って、
おろも語で尋ねてみても、
きょとんとしていて

あーもしや、しだみんにゃ語、ぐらげ語、
もしやてぃぐりんにゃ語かな。。
 
どの子がしゃべれたかなって思いました。

エチオピアには、
70以上の言語 存在しています。

アディスでは
あむはら語かおろも語が主でしたが、

ときどき、
自分のすんでる一帯で使われている言葉のみの
かたもいました。

どの子に通訳お願いしようかなって、
思っていたら、
名前答えてくれました。

アムハラ語わかるようだったので
あれ? とおもっていたら、
 
なにかつぶやいて、
そばにいた他の患者さんが、

「ママ、久々にひとから
名前きかれたんだって。」
て教えてくれました。

それから
「ワァーガナシママ、お夕飯だよー」

ってお夕飯のプレート
持っていってあげると、
すごくうれしそうな顔をして、

「ありがとう。」っていった
あとなにかいってくれて
 
でもまた私は、
理解できなくて、
隣にいた患者さんが、

「久々に人から名前呼んでもらえた。」
っていってるよ。
 
って教えてくれました。
 
最初に運ばれてきたママを見た時、
長い間、
路上で過ごされていたんだろうなって
わかる格好でした。


このときから、
現地の言葉を覚えることも大切だけど、
まず最初にみんなの名前
しっかり覚えようって
思って、それから、
一人ひとりみんなに名前をきいて
わすれないようにメモして
おぼえていきました。

誰も自分の名前呼んでくれないこと、
きっとものすごくさみしいことだろうなって
おもいました 。
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医大生。

アディスにある大きな病院。

そこには、びっくりするぐらい
ドクターの勉強をしている
エチオピアの子たちがいます。

アディスにもメディカルスクール思ったより
たくさんあるような気がします。

みんな英語で医療のこと勉強します。

たくさんの子たちが、
ドクターやナースになって、
外国で働くことを目指しています。

秋にいた時、
町中の、お店に 2008 DV !!
っていう紙が貼ってありました。
 
USのグリーンカード取得応募紙です。

応募するために必要な写真の費用や
切手の費用が用意できるかたは、
みんな応募しているんじゃないかって
いうぐらいみんなみんな、募集していました。

エチオピアのお給料と格段の違いがあるため、
みんなどんどんチャンスがあればでていきます。

エチオピアのお医者さんでも
個人差はでありますが、
700ブル(9000円)
ぐらいの月給のようです。

「日本はお医者さんは月にいくらもらえるの?
ビザ難しいかな? 」
 
何度かエチオピアの医大生やお医者さんにも
された質問です。

親類の中、たったひとりでも、外国にいけたら、
親類一同助かるってみんな考えて願っています。

国がもう少し、お給料払ってあげれたら
きっと少しでも何か変わるんじゃないかなって
思いました。
 
エチオピアには、患者さんがとても多いって
いうのもありますが、
たくさんメディカルスクールはあるのに、
医療関係者の不足なのはこれも原因のひとつなんじゃ
ないかなって思います。

もちろん、この国でとてもがんばっているこの国の
医療関係者のかたもたくさんいますが。

ケニアの施設にいたとき、
患者さんたちに囲まれて、
若い男の子が手当をしていました。

お手伝いしながら、話をしていて、
ドクターになるために
今大学に通っていて、
ボランティアで勉強の意味も含めて施設で
働いているよって教えてくれました。


見た目は今時の男の子なおしゃれな雰囲気で

でも 一生懸命、ゆっくりゆっくり
丁寧に手当してあげていて。

ふと、「卒業したらどこで働くの?」って
きくと、

「みんな欧米諸国にいきたがるけど、
ぼくは 、この国でしっかりした
医者になりたいんだっ]って。

 
なんだかとても感動しました。
| ボランティア | comments(0)

ツオハイのこと。

ツォハイという30歳ぐらいの女性がいました。

彼女も末期がんでした。
 
彼女は股間におおきな腫瘍ができていて、
いつもたくさんの
膿と血がでてきていました。
 
最初のうちは彼女は
いつも手当てを嫌がっていました。
 
手当ての最中少しでも痛いと、
 
「もうやめて。 今日はもう終わり」
といって、
股を閉じてしまうことがよくありました。
 
またの腫瘍の痛みと重みで、
なかなか思うように歩けず
おトイレも、洗面器を持ってあげて
腰をうかせてがんばってベットの上で
していました。

ほぼ両足をまげて
開いたまま
ずっと寝たきりの毎日でした。
 
最初のうちは、私にいう言葉は、
何かがほしいときだけでした。
 
それでも、
私が少しずつ言葉を覚えてきたせいもあってか
色々話かけてくれるようになりました。
 
そこまで口数が多いようではなかった 
ツォハイだったけど、本当に時々
見せてくれる笑顔がとても素敵で笑顔を
見せてくれた日は私もすごくうれしい気持ちでした。
 
 
ある日、彼女が私を呼んで、
「お願い。どうしても  
外のお店で買った
白いインジェラと
ケーキが食べたいんだけど。
いい?」

っていいました。
 
原則として、何かを患者さんにあげることは
禁止されています。

ですが、あんまりに
具合が悪そうだったのでそういう時は・・
って許可がでていたので、急いで施設の外に
買いにいって、
 
「はい。ツォハイ買ってきたよーっ最初にどっち
食べる? インジェラ?ケーキ?」て
 
プレートにあけながら
いうと明らかに苦しそうで
 
「大丈夫?食べれるかな?」
 
ってゆうとゆっくり手でつかんで
一口インジェラをたべて、
一口ケーキを食べて。
 
それから

「見て。私の股間みて。チャラカ。」

っていいました。

毛布をめくって見てみると、
 
たくさん血が、
どすぐろい血の固まりが 
でてきていました。

どろって流れ出るようにでてきていて
足先まで黒い血でたくさんで。

本当に大きい固まりで
頭ぐらいの大きさでした。
 
私は一度、運ばれてきたばかりの患者さんも
この状態でお医者さんも何もできずに
亡くなっていってしまったことを
思い出しました。
 
止血止めの薬と、その血の固まりを取り除いて、
体をきれいにしてあげて、
急いで、点滴をして、
そばにいると、ただ苦しそうにじっと私を
みていて
話かけても返事、してくれませんでした。
 
もぅ夜遅く、 管理の人もいず、
ツォハイの子供がいる子供の棟に 
明日朝一番でいって
子供を連れてこれる許可をもらって
ツォハイのところにきてもらおうって思いました。
 
朝、早くにツォハイのベットにいくと
かなり弱っていて
呼吸が変わってしまっていました。
 
内線電話はないので、
急いで、子供を呼んできてって
近くにいたワーカーの子にお願いして、
私はその日、朝から病院に患者さんと
いかなくてはならず 
車が待っていたので、
でもツォハイの様子がすごく気になって
しばらく一緒にいました。
子供がくるまでそばにいようと思って。
はやく、はやく赤ちゃんきて、って
思ってました。
ツォハイが瞬きをしない目で
私の目をじっとみて
苦しそうに何かゆおうとしました。
 
でも聞き取れなくて。
そのあとすぐ、目を大きく開いたまま、
私の目をじっと見たまま、
もう動いてくれませんでした。 
  
最後にツオハィのたった一人の家族、
赤ちゃんに会わせてあげたかった。
それが出来なかった
自分が悔しくてたまりませんでした。

もっともっと早くにきて、子供連れてきて
あげればよかった。
 
後悔ばかりで、申し訳なくて
たまりません。
| ボランティア | comments(0)

さなだ虫。

お腹が腫れ上がっている子達。
エチオピアには、
体全体はがりがりで本当に
骨と皮だけなのに、
お腹が出ている子がたくさんいます。

原因はいろいろなのですが、
その原因のひとつに、
マニストリッション(栄養失調)があり、
私も昔にテレビで
飢えに苦しんでいる人たちのニュースを
見たときに、
その体型をみたのを覚えています。
 
栄養失調になるといろいろな症状が体にでます。
そのひとつに浮腫のような症状があって
おなかだけが膨れ上がります。
 
施設にも、何人かの女の子が
体は骨と皮だけなのに、
おなかがパンパンに腫れ上がっていました。
 
さわってみると浮腫との違いは
わかるのですが、
テープワーム(さなだ虫)の子も何人か
いました。
 
テープワームは、浮腫よりももっと
お腹、風船みたいに、はちきれそうなほど
おおきくなります。
テープワームがお腹の中いっぱいにいて
いくらこの子たちが
栄養のあるものを食べても、
テープワームがすべて食べ尽くしてしまうため
その結果、体はがりがりにやせこけて、
テープワームがお腹の中で
大きくなるため、
本当にお腹がパンパンで
しゃがむのもたいへんなほどです。

この施設では、週によければ
1回お肉を食べれる日があります。
その前日、
どこからともなく牛が3頭やってきて、
殺されるのを待ちます。
 
エチオピアの牛はかわいそうなぐらい細くて、
お肉あるのかな、って思ってしまうほどです。
土曜日の朝、患者さんたちもたくさん
みんな見守る中、牛が殺されます。
 
最初は残虐でびっくりしたのですが、
そのお肉を煮込んで
次の日のみんなの大好きな
お昼ごはんになります。
 
数人の患者さんが、
残された殺された牛の皮や頭とともに落ちていた
肉片や皮の部分に少し残ってついている
お肉を手でつかんで口にいれて食べていて、
あーって思いました。
 
テープワームを体に取り入れてしまう
原因のひとつは、
殺したばかりの牛や、やぎなどを
そのまままだお肉が温かい、
血が滴っているうちに食べるからってきいて
いました。
 
口のまわりを牛の血で真っ赤にして
食べてて、

「だめー食べちゃだめー出して出してー」
っていって時々無理やり口の中から
取り出します。
 

日本にいたら絶対モデルだよーっていうぐらい
エチオピアの子達は本当にかわいい
きれいな顔立ちをしているのに、このギャップに
驚いてしまいます。
| ボランティア | comments(2)

悪霊のこと。

エチオピアの施設で
いつものように
夜、みんなの手当てを終えて、
自分の部屋に戻ろうとしたら
停電していた暗い廊下の椅子に
誰かが座って
すすり泣いているのがわかりました。
 
どうしたのかな・・って思って、
話かけてみました。
 
ブルトカンっていって
10代後半ぐらいの女の子でした。

「どうしたの? どこか痛いのかな?」
 
「痒いの。 痒くてたまんないの。」

っていいました。

ブルトカンは
すごくかわいらしい笑顔を
持っている子で、
いつもニコニコ
微笑んでいるような子でした。

「そっかーちょっと見せてね。」 

って見てみると、
ろうそくの明かりでもわかるほど
ぶよぶよになってしまった、
やけどのあとが
胸から足首にかけてありました。

胸が痒くてたまらないってゆって
がりがりかいていました。

痒み止めのオイントメントを
ぬってあげました。

やけどの跡はかなり時間が
経っているようでした。
 
別の夜、 患者さんに晩御飯を食べさせて
あげていたら、上の階ですごい叫び声がしました。

急いでいってみると、ブルトカンが
すごい声を出して、
泣き叫んで、暴れていました。
 
私はニコニコしているブルトカンの印象が
今まで強く急いで
周りにいた子に何があったかききました。

「ブルトカン、夜になるとときどきこうなるの。」

20人ほどがブルトカンを囲んで
体を抑えて、
鼻の穴ににんにくをいれて、
病室に掛けてあった、
エチオピア正教で
有名な人の絵の額縁で
ブルトカンの顔を
たたきはじめて
水を
思いっきりかけて、
みんなで殴っています。

私はただびっくりして
「何してるのー。だめだよー。
やめてー。やめてー。」

ってブルトカンの体をかばうと
今度はみんな私の体を無理やり引き離して
抑えて、

「チャラカ、いいの。大切なことなの。
ブルトカンの体には、悪霊が今入っているから
たたき出さないといけないの。」

みんなが真剣にいって、でも

「そんなことしたら痛いし、
ブルトカン、
余計暴れちゃうよ。
ただ、あったかいチャイ持ってきて
休ませてあげて。」

「チャラカこれが一番いい方法だから
おとなしくしてて。」

みんなに体を
押さえつけられながら 
すごく困惑しました。

ブルトカンは、昔、
突然自分の家にいたときに
レイプをされて、
その際に、
火がたまたまでたのか、
火をつけられてしまったのか
このひどいやけども負ってしまったようでした。

そのことが原因で、精神状態が不安定で、
混乱してしまうことがあるとのことでした。


こういう現実が
悲しくてたまりませんでした。
| ボランティア | comments(2)

割礼のこと。

体から汚物をとったり、
尿管、肛門に器具を入れたりするとき、
それぞれのトライブ(部族)の
割礼のあとがわかります。

聞き慣れてない言葉だったので最初、
患者さんの各部分をみたとき
なんでこんなふうになっているのか
わかりませんでした。
それも患者さんによって、
全く違うふうで、
でもみんな痛々しいそうで
割礼の意味を知らない私は
なんだか複雑な気分でした。

アルマズという10代後半ぐらいの女の子がいました。
すごくかわいい顔立ちで、
いつも自分の1歳になる子供の話してくれていました。
彼女もHIVポジティブでした。

彼女も割礼の後がありました。
下半身が全く動かない体なので、
尿管にカテーテルを入れていたのですが、
カテーテルは時々、
炎症を防ぐために交換します。
彼女の割礼のあとは尿管の部分にもきていて、
カテーテルを入れるのが
だいぶ時間がかかりましたが、
なんとか挿入できました。
取り外しのときに、
中で、薬品でバルーンを作って
ぬけてしまうのを防ぐのですが、
そのバルーンの薬品を
ぬきっとて外す際、
私の不注意で尿が一緒に飛び出てきたりして、
思いっきり私の顔にかかって、
目の中、口の中にその子の尿が
はいってしまったり、
アルマズは全く悪くないのに、

「ごめんねチャラカ。ごめんね。ごめんね。」
ってずーと謝ってくれている子でした。

粘膜感染、何万分の1だけどあるってききます。

でも、それでもいいと、
この病気で苦しむみんなを知っているだけに
そんなこと軽はずみにゆっては
いけないのだけれど、
それでもいいと思っていました。
そう自然と思えてしまうほど、
あんまりにみんながみんなHIVポジティブなので、
自分が今まで普通にこうして生きていること、
自分の足で立っていられていること、
26年間生きてこれたこと、
家族がいること、これだけで
充分だったんじゃないかって思いました。

一度、エチオピア在中の韓国人の
男の子に会いました。
その男の子は、私に、
「失礼に聞こえたらごめんなさい。
そういう施設で働いて、
ポジティブの方と接して怖くないですか。」
ときかれました。

すごく不思議な感じがしたのを覚えています。

私にとって、ポジティブということよりも、
友達が苦しんでいるから
お手伝いしているだけな気がしました。

彼女の赤ちゃんが、ひきとってくれている近所のかた
と一緒に、一度だけ面会にきました。
いつも笑顔を絶やさないアルマズが大泣きして、
上半身だけが動く体で
一生懸命その子を
しばらく優しく抱きしめていました。

その赤ちゃんは、皮膚の感染症にかかっていて
髪の毛、眉毛もなく、
顔の肌もただれていて。

「早く一緒に暮らしたいよ。
どうして私の体こうなんだろう。」って

赤ちゃんが帰ってしまったあと
「悔しいよ・・。」って

動かない足を叩きながら
泣く彼女が
せつなくてたまりませんでした。

彼女の隣のベットの子、
ラフェルという女の子も
麻痺をしていました。

あるとき、ラフェルのベットに座って、
バナナをむいて食べされて
あげていたときに、
隣にいたアルマズが、

「ムース(バナナ) 落ちているよ。」

って教えてくれて、
それを拾ってアルマズのほうをみたとき、

少しだけアルマズの様子が
おかしいのにきずきました。

「アルマズ 大丈夫?」って声をかけると

「うん。大丈夫。チャラカ、
のどが渇いたから
お水と
あとブルトカン(みかん)が
食べたいの。食べさせてくれる?」

って言いました。

いつも自分でみかんをむいて食べる
アルマズが珍しいなって
少し頭をよぎったけど、
アルマズのベットに今度は座って、
みかんの皮をむいて
食べさせてあげて、

途中で、病室の外で、
誰かが叫んでいるおかしな声が聞こえて、

「ちょっと待っててね。」って
少しだけ外に様子をみにいって
少しして戻ったら、
アルマズの体も顔も大きな目も
もう固まっていました。
 
いつも呼吸でわかるのに、
このとき、アルマズの呼吸、
おかしかったのきずきませんでした。

「アルマズ、アルマズ、、、
まだ、みかん、
全部食べ終わってないよ。食べなきゃ。食べて・・。」

意味がわからない言葉を泣きながらいって、

アルマズアルマズって何回も呼びかけている
声で隣にいた、
ずっと仲良しだったラフェルも
首にも麻痺の症状が出て、
隣の彼女の姿はみることが
うまくできなかったからか、
きずいていたなかったようで、
私の声で異変にきづいたのか、
いつも隣のベットで二人で話しをして
励ましあって
いたお友達が一瞬にして
亡くなってしまったことで
彼女受けたショックはとても大きく、

自分で涙を拭くこともできない
彼女が我を忘れたように
おいおい泣く姿が
悲しくてたまりませんでした。

まだママの死を理解できない
アルマズの赤ちゃんのことを思いました。
亡くなったアルマズの体から
エチオピア正教の子がつけている、
黒いひもと木で
できている十字架のネックレスはずして、
アルマズの赤ちゃんに渡してもらえる
ように管理の人にお願いしました。

一度、若い女の子が亡くなりました。
その子には2歳ぐらいのやっと歩けるぐらいの
男の子の子供がいました。
その男の子は、同じ施設の子供の棟にいて、
1ヶ月に数回ママに会いに
きていました。いつも大きな声を出して
嬉しそうにお母さんと笑っていたのを
私も覚えています。
その若いお母さんもある日、
亡くなってしまって、
でもその男の子はいつもと同じように会いにきて
一生懸命同じ、お母さんのいたベットにきて、
違う患者さんが
眠っているのを不思議そうにみて、
しゃがみこんで、
ベットの下を見てお母さんを探している様子が
とても悲しくて。

こういう風にしてお母さんを
亡くしていってしまう子が
どれだけいるのかなって思うと、
胸が痛みます。

家族が誰もいないという子の悲しそうな
大きな目をみるたび、
ただ 私が家族だよ。なんて冗談まじりに
ゆうことしかできないけど
でもそれでも嬉しそうに私の胸から
ミルクを飲もうとするしぐさが
とってもかわいくて。
本当にずっと一緒にいたいなって
いつも思っていました。
栗山さやか | ボランティア | comments(2)

HIVの血液検査のこと。

メロンというこの施設で
一番ぽっちゃりした17歳ぐらいの
エチオピアの子にしては
珍しく体格のいい子がいました。
いつもたくさん話して
たくさん笑って、
歌って踊っている子で、

私が夜、やっと手当てが終わって
他の患者さんに
ご飯を食べる手伝いや、
体をきれいにしてあげていると
いつも

「チャラカーマッサージ、
マッサージしてよぉ。」って全裸で
ゆってきていました。


「しょうがないなーっ
毎日はだめだからね。」てゆって、

時間の余裕があるときに
マッサージしてあげていました。

損傷もなく、きれいな肌で、
メロンはどうしてこの施設にいるのかな?
って思ってカルテを探したのですが、
HIVの疑いがあるとのこと。

HIVの血液検査をする日が決まって、
メロンが、

「私もしネガティブだったらお家に帰れるのー!」

って大興奮していました。

ちょー元気だし、
よく食べるし大丈夫なんじゃないかな?

って思っていました。

その検査の日がきて、
朝早く、検査をうけにいきました。

その日はちょうどその病室だけで
7人が検査にいきました。

7人のうちの6人、
ポジティブ反応がでてしまって
メロンも残念なことに
ポジティブでした。

メロンは、

「家に帰りたいよ!
なんで私がポジティブなの?
絶対違う。 なんでーなんでー 絶対信じない!」

号泣していました。

他の子たちも、ただただ
自分の体の中でおきてしまったことに
涙をたくさん流していました。

私はなんてゆったらいいかわからず

いつも無責任に「大丈夫だよ。大丈夫。。。」って
を繰り返すばかりで。

メロンが違う病院に移ることが決まりました。

あんなに元気だったメロンが
ずっと元気がなく
心配していたのですが、

病院にいく日、メロンが前の元気を
取り戻していて、
「私まだ若いし大丈夫。
がんばる。 チャラカ、バイバイ。」

って笑顔をみせてくれました。
これからこの子はどんな人生を
過ごしていくのか
不安に思うと同時に、
私にできることは、
ただ心配することだけで。。

これからもどうか
彼女の明るさがなくなっちゃいません
ようにって思っています。
栗山さやか | ボランティア | comments(1)
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