日本のNPO法人アシャンテママ設立致しました。

 

 

本日は、

日本のNPO法人アシャンテママ設立のご報告をさせてください。


以前、このブログの
NPO設立申請のご報告」でお伝えさせていただきましたが、
今月、無事に認証され登記が完了致しました。


応援、ご支援、ご協力をいただいた皆様に、

深くお礼申し上げます。


登記名は「特定非営利活動法人アシャンテママ」です。

代表を引き受けてくださったのは、福田淳さんです。


2009年に現地でNPOを立ち上げてみようと思ったとき、

当時、福田さんが代表をされていた

ソニーデジタルエンターティメントさんで、

私のブログを携帯配信してくださいました。


その際に配信料を受け取らせていただき、

私の貯金と合わせて、現地NPOを立ち上げることができました。

その後も、何年もお散歩会を皆様と開いてくださり。。


そして顧問は、

ずっと応援してくださる

坂之上洋子さんにお願いすることができました。


私はもともと、よーこさんの著書に勇気づけられ、

大勢いるファンの一人だったのにも関わらず。。


また理事のお一人の安本圭佑さんは、よーこさんのご友人で

お散歩会を開いていただくときに、手配やご準備など、

多くのことをいつも笑顔で引き受けてくださるかたです。


今回アシャンテママの公式サイトも作ってくださっています。

また後日お知らせさせてください。


その他、NPOの構成員としてご協力いただいているのは、

何度もお散歩会を開いてくださっている幹事の皆さま、

私の高校時代の先輩でいつもご支援くださる野中久彰さん

そして私の地元で発足していただいた応援会の方々です。

(全ての方のお名前をここに書きたかったのですが、

ご了解を得ていないので、今回は控えさせてください。)

 

昔、渋谷のショップ店員で派手な格好をして生きてきていて、

国際貢献や途上国について勉強したこともなく、風来坊で

たまたまアフリカに辿り着いただけの者を信頼してくださり、

ずっとご支援してくださる皆様に心から深くお礼申し上げます。


アシャンテママの活動は、

モザンビークが2009年10月から、マラウィは2016年8月から、

それぞれ現地NPOとして続けさせていただいてます。

そして日本では任意団体として8年間活動してきました。


今でも、始めた当初から変わらず、自問自答したり、

様々な葛藤があったり、多くの反省を繰り返しながらの毎日です。


ですが、このたび、

日本でNPO法人アシャンテママ設立をさせていただき、

よりいっそう精進して活動を継続していけたら、

と思っております。


温かいご支援、いつも本当に感謝の気持ちでおります。

 

 

写真 モザンビークの2校目の子供達

栗山さやか | お知らせなど | comments(2)

モザンビークの家の窓

 

 

モザンビークに住んでいた頃の写真の中に、

自分がいつも眠るときにみていた壁と窓の写真がなぜかあって、

(確か窓の外に猫がいてその姿がかわいくてたまたま撮った写真)

当時のことを思い出しました。

 

現地の貧しい人たちのわらと泥の家は、窓すら作れないことが多いです。

ガラス代や安全のための鉄の棒を取り付けるのもお金がかかるし、

下手に窓があると泥棒や強盗たちが入ってきてしまうからです。

 

住んでいた町はそこまで小さな町ではなく人口も多かったし、

その中で夜中に家に泥棒や強盗が来るのは

一晩あたりきっと数軒だったと思います。

 

なので確率的には強盗が来る確率を考えるとそこまで高くなかったのです。

 

ですが、うちのすぐ近所に住む人の家に強盗が入ったり、

夜中叫ぶ人の声が聞こえたり、

銃を発砲する音が時々聞こえたり、

(うちの近くに刑務所、拘置所があって

そこで脱走する人に向けて見張りの人が脅しで時々発砲していた)

近所で殺人が何回かあったり。昼間首絞め強盗にあったり。

近くで遺体が見つかったり。

 

この窓の写真を今回、たまたま見つけて、

今夜こそ強盗たちうちに来るかも。。と怯えながら

眠りについていた日々を思い出しました。

 

戦争や内戦がある場所で暮らす人々は、

もっと比べ物にならないほどの恐怖の日々だと思います。

 

今は、現地を離れて暮らしていて、

朝まできっと何事もなく安心して眠ることができると、

当たり前のように布団に入れる生活が

とれほど貴重でありがたいことなんだろうと思っています。

 

 

日本にいたときに、ある人に、

「神様や宗教を信じている人ってどうなんだろうって思う。」って

言われたことがあって、

 

あぁ、きっと平和な場所にずっといることができると

そういう風な感じに思う人も多いのかなと思いました。

 

私も海外に出るまでは

そこまでそういったことを深く考えたことがありませんでした。

 

平和がない場所や理不尽なことが起こる場所、

何かが起こってしまっても

どこに頼っていいのかわからないような場所では、

どうすることもできなくて、

藁にもすがるような気持ちで

みんな一生懸命神様に祈ったり、

普通の日常があることに神様に感謝をします。

 

そういう信仰や神様と共に生きる人々を色々な国、

特にアフリカ大陸に入ってから間近で見てきて、

色々なこと、人生観とか哲学的なことを含めて教えてもらいました。

 

また時々そういったことも書いていきたいです。

 

世界の全ての場所で

怖い思いをせずにみんなが夜眠れていますようにと

思います。

 

 

写真 

 

昔、フィリピン人の親しい友人ヘレンが家の壁が監獄の壁みたいだからと、少しでも気分が明るくなるようにと塗ってくれたオレンジ色の壁。

 

栗山さやか | 日々の暮らし | comments(2)

お昼ご飯のメニュー

 

朝、アシャンテママの教室に行くと、

兄弟に連れられて一緒に来ている3,4歳の

小さな子供達も校庭にいます。

 

お昼ご飯を食べる前は、

みんなじっと座っているか

横たわっている子も時々います。

 

体調が悪いのかな、眠たいのかなと聞いてみると

お腹が空きすぎて。。。と。。

 

お昼ご飯を食べ終わると、

みんな大きな声を出して、

元気に飛び跳ねたりして遊びだします。

 

小さい子たちが空腹のまま我慢して眠る夜もあったり、

お腹が空き過ぎて

夜中に目が何回も覚めてしまう夜もあると聞きます。

 

温かいご支援心から感謝申し上げます。

 

写真 おかずの干した魚 それぞれの協会の子供達。

お昼ご飯中。みんな食べている間は集中していてとても静かです。

みんなの大好きな卵のおかずのお昼ご飯

 

みんなの大好きな卵

 

栗山さやか | モザンビークとマラウィ | comments(3)

ルーシアさん。

 

アシャンテママで働く私と同年代のルーシアさん。

 

ルーシアさんは、約8年前に、

アシャンテママの女性たちの教室に通ってきていたひとりでした。

 

ルーシアさんがアシャンテママの教室に通っていたとき、

いつも同じボロボロの服を着ていて、はだしで、

やせ細った体に、やせ細った赤ちゃんを抱えていました。

 

しっかり住む場所がなく、母乳も出ず、薄汚れた哺乳瓶をいつも持って、

その地域で物乞いのようなことをして歩いていた女性、

と聞いていました。

 

元々近くの村に住んでいて、今まで6人出産したけど、

1人は産まれてすぐ、他の4人は、2歳ぐらいになる前に

次々と死んでいってしまって、

最後にひとりだけ残った赤ちゃんと暮らしていたそうです。

 

この赤ちゃんがお腹にいる頃に旦那さんも亡くなり、

なんとか生まれた、赤ちゃんも弱ってきてしまって、

今までの子供たちのように死んでしまわないように、

この町の病院に来るために、急いで自分の村を出てきたと。

 

栄養失調、感染症などで弱ってしまって痩せこけた赤ちゃん、

入退院を繰り返していて。。。

 

村までの病院の診察に行き来する乗合ワゴン、トラックの荷台(バス)に乗れるほど

お金は持ってなく、町の知り合いの家などを赤ちゃんと二人で、

転々として、水汲みや薪割り、その人たちの家の家事をして、

崩れそうな泥とわらの小さな家に住まわせてもらっていました。

 

ルーシアさん自身も8歳ぐらいの頃に、もう両親が亡くなって、

親戚の家に引き取られて育てられた女性です。

 

女性の勉強会がある朝、

冷え込みが厳しい寒い冬の朝でも、ルーシアさんは、

誰に言われたわけでもないのに、一番に早く来ていました。

 

そしてわらの勉強小屋の周りを、

自分で木の枝を集めて作ったほうきで掃いてくれていて、

ゴミを拾ったり、

水汲みなどもいつも自然と手伝ってくれていました。

 

それに、他に困っている女性たちのことを、

いつも気にかけている優しい気持ちを持っているなぁと、

日々接する中で思っていました。

 

当時、アシャンテママのスタッフは、

数人の高校に通う女性たち(と言っても私より年上だったり)

同年代の子たちを雇っていました。

 

ですが、このスタッフの女性たちは、

アシャンテママの教室に通う貧しい女性たちと挨拶するときに、

「呪いをかけられそうだから握手したくない」と嫌がったり、

その他の言動に諸々不安に思う点があったので、

逆にルーシアさんに働いてもらったらどうかな?

と思い始めました。

 

ルーシアさんは、子供の頃、小学校4年までは学校に通ったことがあって、

少しだけポルトガル語が話せて、

自分の名前や簡単な単語なら読み書きができる女性でした。

性格もとてもまじめで、正直で優しくて。

 

ルーシアさんが住まわせてもらっていた家族と

うまくいっていないと聞いていて、

そんな時、ルーシアさんが寝泊りしていた小屋に強盗が入り、

ルーシアさんは、暴行を受け、赤ちゃんも壁に投げつけられて、

持っていたお豆なんかを強奪されたと聞いて。。。

 

それを聞いて、すぐにお見舞いにいきました。

 

受けた暴行がひどすぎて、立てなくなって寝たきりのままで

薄暗くて狭くて、湿ったような土の上に

布だけひいた小さなぼろ小屋に

赤ちゃんと横たわっていました。

 

 

ちょうどその時期に、

アシャンテママの教室を移動しなくてはならなくなり、

急遽みんなでわらの教室を解体して新しい土地を見つけ、

新しいわらの教室を作りました。

 

そこには、小さな家もあって住む人がいたらいいなと思っていて、

ルーシアさんに聞いてみると「ぜひ住ませてほしい」と。。

 

それが、もう7年前ぐらいのことです。

 

今でも変わず、アシャンテママの教室の場所に住みながら、

リーダーになりしっかり働いてくれています。

 

アシャンテママの教室がない日でも、

お腹がすかせた子供達が教室に来たり、

親せきの家に預けられていて、

家にいると暴力やひどい言葉を浴びせられている子供達が、

教室に自然に集まってきていて。

 

ルーシアさんはいつも自分の食料をみんなに分けていて、

「アシャンテママの予算からそういう子供たちが来たら

食費として使っていいからね。。」と伝えても、

使わずに自分の食べ物を分けてあげていてばかりで。

 

誰かが病気で寝込んでいると聞けば、

いつも気にかけてお見舞いに行き、

水汲みなんかなんでも手伝ってあげていると、

他の人たちからいつも聞きます。

 

悲しい現実が多い場所でルーシアさんの存在に

みんなものすごく救われていると思います。

 

仕事のうっかりミスのことや、

あーでもないこーでもないと、色々話すこともありますが、

現地を離れて暮らす私自身、お金の管理を含め、

ルーシアさんの存在にとても助けられています。

 

数年前、彼女の唇に炎症があり、ずっと治らずにいて、

もしかしたらと思い、検査を受けてみたらどうかな。。と聞いて、

彼女も「受けたい」と言って、病院に付き添いました。

 

結果、HIVに感染していることがわかりましたが、

ルーシアさんは、他にも感染がわかって落ち込む女性たちに、

温かい言葉をかけて、とても前向きで。

 

ルーシアさんに知り合えて私も多くのことを彼女から学びました。

彼女の存在がとてもありがたいです。

 

何年も一生懸命働いてくれていて、感謝するとともに、

色んなことを乗り越えてきたルーシアさんが

幸せであることをいつも願っています。

 

 

写真

 

畑で働いてくれていた女性へ、お給料の支払いをしているルーシアさん(ピンクの服)

 

 

子供達へプレミオの日、手を振るルーシアさん(右下)

 

 

 

 

栗山さやか | モザンビークでの活動 | comments(7)

子供たちのおうちと台所の写真

 

 

アシャンテママの子供たちのおうちの写真です。

 

きれいに片づけられた台所。

 

 

 

 


栗山さやか | モザンビークでの活動 | comments(2)
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