ファティマさん。




勉強小屋でいつものように、
子供たちのよたよたになったノートの修理を

ホッチキスとテープでしていたら、

1人の女の子が、小屋の中の授業を抜けて、
私の動きをじっと見てそばで立っているのがわかりました。

 

顔をあげて、その子の顔じっとみると

懐かしい顔で、数か月前に家族と村に畑を耕しに行っていた女の子の1人だと

思って「あー久しぶりだね。 元気にしていた?
村でとうもこしとかお豆しっかり収穫できた?」って

にっこり話しかけると彼女、大粒の涙流しはじめて、
あって彼女が誰だったかを思い出しました。

 

彼女はこの間亡くなった協会の女性の孫の女の子でした。

 


彼女はお父さんをもう亡くしていて、
お母さんは別の男の人と一緒に暮らすようになって

そういった場合、前の旦那さんとの子供は
新しい男の人から暴力を受けたり、家から無理やり追い出されたり
ひどい扱いを受けたりすることが多くて

かなりの割合で別の場所に住むおばあちゃんに預けられり
親類に育てられることが多いです。

 

彼女もおばあちゃんに育てらてずっと育っていました。

おばあちゃんと言ってもここでは出産年齢もみんなとても若いので
(12才で産む子や、15歳の出産はよくあります。)

私の年でおばあちゃんの子達も全然珍しくないです。

 

彼女のおばあちゃんは40代半ばぐらいでした。

つい先週、彼女が耕しにいった奥地の村で
亡くなってしまったって連絡うけたばかりでした。

 

この女の子、ルーシアは村におばあちゃんと畑を耕して生活していて

そこでずっとお母さん代わりだったこのおばあちゃんが亡くなってしまって。

 

このおばあちゃんだった女性、ファティマさん、勉強小屋で勉強していた

女性でちょうど2か月ぐらい前に

村から町に1回戻ってきたときに

勉強小屋にも寄ってくれて

「さやか、私はしばらく具合が悪いの。」って言っていて

「病院に行って症状しっかり説明して、
もし具合が良くならないのなら、病院が近くにはない村には

戻らずに治るまでどうか町にいてくださいね。」って伝えました。

 

それでも彼女は村に戻ってしまってそこで亡くなっていってしまいました。

結局何が原因で亡くなってしまったのかわからずじまいです。

 

町の周辺に自分の耕す畑を持つにはお金がとてもかかります。

なのでみんな雨期の時期になると畑を耕しに
遠く離れた奥地の村やブッシュの中に入っていきます。


いつも栄養不足のみんなは病気にもなりやすく、体調も壊しやすいですが

この雨の降る大事な雨期に畑を耕して種をまかないと、

寒い乾期には食べる物が全く無くなってしまいます。

 

彼女自身も旦那さんを昔に亡くしていて、まだ小さい自分の子供たち、
娘から頼まれた孫たちの面倒、食べ物の確保

具合が悪くても一生懸命くわ一本で
子供たちもみんなでお手伝いして畑を耕していました。

 

 

おいおい泣く彼女をハグしながら

「大丈夫だからね。 これからまた一緒に勉強したりしていこうね。」って

これから母親と新しい男の人に引き取られるか、親せきの人に引き取られて

暮らすことになるこの子たちが

どうかひどい扱いを受けてしまいませんようにって

彼女のぼろぼろになったいつも同じ服の体をさすりながら思って、

家庭訪問も近いうちにしてみようと思いました。

 

  

ここでは特に貧しい人の中ではあまりに早く人が亡くなっていくので

産んだ子供全員まだ生きている女性も少ないし、

逆に両親2人揃っている子供たちがとても少ないです。

こういう風に残されていってしまう子供たちの現在も未来も少しでも

明るい、温かいものになれるようにと思っています。。


 

栗山さやか | モザンビークでの活動 | comments(15)

医療技術学校

 

昔エチオピアの施設でしばらく生活していた頃、

毎日亡くなっていく自分よりも若い女の子たちをみながら

いつか医療の勉強ができたらと思い始めました。

モザンビークで長く生活するようになってから

ここで医療の勉強ができたら。と思うようになりました。

 

ここの公用語はポルトガル語ですが、
初めて来たとき、ポルトガル語は一言もわからなかったし、
ここで暮らし始めた最初の数年は、

いつまでここに住むのか全く決めていませんでした。


ポルトガル語の辞書は手に入らなかったし、

自分で辞書もどきを作って、
誰かが言った言葉をノートに書き写して
暗記するように日々その繰り返しでした。

 

日本を出てきてから、

無職でただいろんな国をうろうろしている人になり、

贅沢は敵だと思い、節約しながら旅を続けていました。

 

ですが、ここで医療の学校に通うことができたら。と考えだしてから、
たくさんの睡眠は敵だとも思うようになりました。

 

協会(アシャンテママ)の仕事、英語教えるお手伝いの後、
夜は1人で勉強していました。

 

でも、眠気に負けて、まだ教科書1行も読んでないのに

そのまま机で眠ってしまい、夜中に物音や、寒さで目が覚めて

布団にふらふら入って寝ちゃったりの日もありました。

 

それでも勉強机に亡くなった日本の親友の写真、
亡くなったエチオピア、モザンビークの子たちの写真を置いて

いつも眺めながら励まされて少しずつでもと勉強を続けました。

 

受験科目は生物と国語で、もちろん全部ポルトガル語で
最初の頃、出題範囲の高校生の教科書みたとき

すべての単語が読めなくて、

本当にこんなんで試験にいつか
受かることができるんだろうかって青ざめていました。

 

生物は、細胞、生態、解剖からの出題で

だらけて過ごしてしまった日もたくさんあったけど、

自転車こいで勉強小屋に向っているときも、ご飯食べているときも、

ひたすらブツブツ暗記したり、勉強するようにしていました。

 

日本で学生だった頃、普段は勉強よりもアルバイトや

友人と遊びにいったりすることに忙しくて、
試験前に一夜漬けで勉強することが多かったので、

人生でこんなに長い間、勉強したのは初めてでした。。

 
ついに先月入学試験があって、もし今回受からなかったら

次の試験は2年後になってしまうのでとても怖かったです。

 

試験問題、選択問題もありましたが

穴埋め、記述、小論文形式がでて、私にとったら

すごく難しくて試験が終わったあと、

ずっとダメだっただろうなととても落ち込んでいました。

 

合格発表の日、たくさんの現地の子達も
学校の外に張り出された結果発表の長い紙を見るために集まっていました。

 

私もみんなに何、この外人?って感じで
じろじろ見られながらひとりで人だかりの中に入って行くと、

上位に自分の名前とそれぞれの科目の点数が書かれていて、

その横に合格って書かれてて、本当に嬉しくて涙が出そうでした。

 

試験を受ける前、お金持ち層の現地の友達とかに、

「えー試験受けるの?落ちるでしょー。

学校関係者の人に大金(賄賂)渡して
合格できるようにしてもらいなよー。」

ってさんざん言われましたが、

「自分で試験受かるように勉強頑張る」って言い続けていました。

 

入学願書を提出したときも、担当のかたたちに

「ここは政府直属の学校だから、外国人はだめ。」って
言われてしまいましたが

最終的にはいくつかの書類を提出し、「入学試験に合格すれば入学を許可する」って言ってもらえて。

 

私の受けた学科は、医療技術科で

(ここでは、病院に行っても医師の数が少なすぎるのもあって、

医師には見てもらえないです。
医師の代わりにこの医療技術者さんたちが診察します。)

診察したり、治療したり

薬の処方箋を書いたり小さな村とかの病院の管理をしたりもする学科で、

1000人近く受けて合格者は30人でした。

試験、私にはとても難しかったけど、たまたま集中して勉強したところが
出題されて運が良かったんだと思います。
 

ここの学校で働く人たちに合格発表のあと入学手続きしに行くと

「あなた、受かったんだねー。あっさり落ちると思っていたよ。

勉強本当に頑張ったのね。」って言ってもらえて。

 

海外にでる

きっかけをくれたよーこさんの本に書かれていた

よーこさんのご友人の言葉、

 

I never said I can’t, if you say to yourself
 that you  can’t , you can’t do it..

(もし、自分に「できない」と言ってしまったら、
それは「できない」けれど、私は決して自分に「できない」とは

言っていない。)

 

私もこの言葉を紙に書き写して部屋の壁に貼っていて、

協会の仕事でも、今回の受験勉強でも、ここでの生活のことでも

もう無理かもしれないって

弱気になってしまったときいつも読み返していました。。

 

 

学校は今月から始まります。

月曜日から土曜日で朝6時半から午後5時までです。

(土曜日は基本午前中のみ)
いまだにポルトガル語、知らない単語は山のようにあるし、
文法も、形容詞とか冠詞の使い方も

まだまだ怪しいですが、授業についていけるように頑張ります。

 

協会の仕事は、平日は一緒に働いている子に電話で連絡を
とりながらお願いして、
私は平日はお昼休憩の1時間半と夜、土曜日の午後、日曜日と考えています。

 

自分が何年か前からしたかった勉強ができることで1人でうかれていたら、

協会を始めた当初から通ってきていた8歳ぐらいの男の子、イスフが

亡くなってしまったって連絡がちょうどきて茫然としました。。

 

イスフ、数週間前から具合が悪く
勉強小屋をお休みしていたのですが、

病院にも何回も連れて行き、それでも具合が良くならず、
村の呪術医さん、伝統治療師さんのところへ

連れて行ったその日に亡くなってしまったようです。

イスフの亡くなってしまった原因もいろんなことが考えられますが、

結局わからないままです。。

 

まだこうして生きていて、じぶんのしたいことや、したい勉強ができる

とても恵まれた自分の環境に感謝しながら

これからも毎日を過ごしていきたいです。

 

 

こういう風に亡くなっていってしまう子達を
少しでも減らせるように、
協会の仕事も継続して

気持ちを引き締めて活動させていただきたいです。

 

 

協会へのご支援をしてくださって本当にありがとうございます。。

 



写真。 村にあったHIV、エイズを防ぐ方法が書かれた看板。
    文字が読める人も圧倒的に少ないし、
    こういう看板や道路標識なんかも
    アルミみたいなのでできているので
    タライやお鍋などにするためによく盗まれてしまうようです。 

 

 

 

    村にある小さな病院。
    右にぶらさがっているのは、赤ちゃんのつるして体重測る
    ところです。電気も水道ももちろんありません。


    協会の子どもたち。
    勉強小屋の授業が終わった後、みんなで
    しらみを探しあっているときの写真。

    イスフもこの日みんなと一緒にいたと思います。

    明日、イスフの家訪ねてみます。 

     

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

栗山さやか | 勉強 | comments(18)

シャワー


 
 

アフリカ大陸で三番目に大きな湖が
ここから150km離れた場所にあって、
遊びに行ってきました。

1泊だったけどすごく気分転換になりました。

 

デンマーク生まれとイギリス生まれで
南アフリカ育ちの2人の友人が小さなロッジを

ここの湖のそばに今建てていて、たまには息抜きにおいでーって
誘われて

ほぼ完成したロッジに泊まらせてもらいました。

 

なんとシャワーが設置されていてしかもお湯がでました!

 

 

何年もタライシャワー(自分でタライの水すくって体洗う)の生活なので

シャワー、両手が自由に使えて水もわんさかでて、

しかもお湯!がでて感動でした。

何年ぶりの普通のシャワーかなぁと思いました。

 

いつもタライとかバケツ一杯の水で体洗い終えないといけないため、

最初の頃は慣れてなくて水が足りなくなってしまって

まだ体中泡だらけなのに水終了。。になってしまったときもよくありました。

 

今ではタライ一杯分の水ですべて髪も体も全部洗い終えれます。

 

それでもやっぱり蛇口をひねって頭の上から水がでる

普通のシャワーは本当に偉大だなぁと思いました。

 

 

ここの湖で採れる魚、(タイみたいなの)をお料理してくれて

私の住んでいる町ではすごい高い値段で売られている魚で

全く手がでないので嬉しかったです。

そしてとてもおいしかったです。

 

彼たちから南アフリカの話またいろいろ聞きました。

南アフリカ、モザンビークのすぐ隣です。


何回か行ったことありましたが、

ヨハネスブルクは大都会です。

 

アフリカで一番栄えている国で、
南アフリカはヨーロッパみたいって

言われているの本当だなぁって思っていました。

ドバイにたくさんあったような迷子になりそうな
巨大なショッピングモールもたくさんあって。

 

それでも前からよく聞いていた
いろんな政治、法律の問題、人たちの話を聞くと

アパルトヘイトが廃止されてもう18年も経っていますが、

白人と黒人の人たちに根強く残る問題は
本当に難しいなぁと思いました。

またブログに書きたいです。

 

 

 

写真。

 

 

湖の水をパイプで引いて、
このミサイルみたいなのの下に火をくべて

温めてそれがお湯シャワーになってました。

感動しました。

 

ちなみに私の履いてるスニーカー、
ずっと前に行ったオランダの安宿で

誰かが忘れて行ったのを
宿のお兄さんがくれたものです。

もう6年以上も前にもらったもので
裏のとこ縫って直してはいているのに

今写真見て新品みたく写っててすごいと思いました。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

栗山さやか | 日々の暮らし | comments(20)

温かいコメント、ご支援本当にありがとうございます。



「ぐっと地球便さん」をみてくださったかたが
温かいコメントをいただいたり、

ご寄付をしてくださったり、

とてもとてもありがたく涙涙です。

本当にありがとうございます。。

 

 

最初に地球便さんからご連絡をいただいて
来ていただけることが決まった時に

いろんなかたがふと何気なく見るテレビで

私のしている活動は、

無責任だと言われてしまうのがとても心配でした。。

 

 

今日も今はモザンビークの首都に住んでる
フィリピン人の友達から
電話が来て、
彼女のフィリピン人の友人がモザンビークで結核になって

亡くなってしまったって連絡でした。

 

去年の終わりもアフリカを
バックパッカーしていた日本人のご夫妻が二人とも

数日以内にマラリアで亡くなってしまったり、

いつだったかマラウイの日本大使館に行った時も

マラリアになり数日後には
あっという間亡くなってしまった日本からの短期間旅行者の

かたの情報の張り紙が貼ってありました。

 

別の州で働いていたベトナム人の亡くなった子達、
襲われて亡くなったブラジル人のかた、

別の州で連続して発生したアジア人を狙った誘拐
(特にお金持ちのインド人の人たち)

大金を払って無事に釈放されたかたや、
銃で撃たれた遺体で見つかったかた、

知り合いの家に朝8時にきた5人の強盗たち、
見張りの人を拳銃で撃って

現金と携帯電話奪っていったり 

この州でも去年、別の州とをつなぐ道路のプロジェクトで

たくさん来ている中国人のかたたちの中の
2人もきたばかりだったのに
事故と病気で亡くなっていってしまったそうです。

あとは交通事故にあって
足を切断して中国に戻られたかたもいました。

 

ベトナム人の子達は亡くなったかたのご遺体を
ベトナムまで空輸したそうです。


中国人の子達は、保険に入っていず
遺体を空輸する莫大な予算がなく、

ご遺体をどうするかなかなか決められなかったようで

遺体保管所の冷凍庫の中に2か月近くほど保管したままになってしまって

最終的には、家の外でご遺体を自分たちで燃やして、
(ここは亡くなると土葬なので火葬場はないです。)

灰を中国のご家族へ送ったそうです。

 

 

殺人や危険なことは世界中どこにいても
あってしまうことだと思いますが、

その割合はやはりここでは日本と比べものにならないです。

 

どんな場所でも襲われてしまう人たちもいる反面、
同じ場所でも襲われずに生活できる人たちいると思いますが、

アフリカにきてから病気等で
亡くなっていく子たち、襲われてしまった子たち

たくさん見てきました。

その子たちと自分に違いはないなぁといつも思います。。


 

とても親不孝だとわかっていますが、

私も自分に何かあった場合、
ここの家の庭に埋めてもらおうか、

そこらへんで体燃やしてもらって、
灰を日本へ送ってもらおうか

ときどき考えてしまいます。

 

 

 

あと死んでしまった場合もそうですが、

精神に障がいが残って自分で何もできない、
判断もできない
状態になってしまったり、
誘拐されてしまった場合、日本の大使館のかたや

いろんな方にどんだけの人に迷惑をかけてしまうのかそれが怖いです。

ただ本当に、

自分の行動に気を付けて11日を大切に生きていきたいと思っています。

 

 

また話が暗いほうにいってしまいました。

本当に書きたかったことは、

地球便さんをみてくださったかた、関西の方、青森県、長野県のかたたちから

コメントをいただけたり、

たくさんのかたにご支援していただき、本当に感謝しております。
涙と鼻水流しながらコメントやいただいたメール等
読まさせていただきました。

 

こんな風に私が感じるあったかい気持ちを

ここの子どもたちにもあげたいです・・・。

 

 

アフリカはこれからもいろんな国々の人たちが

ビジネス展開、食糧確保のため、豊富な資源を求めてやってきて、

どんどん発展していくと思います。

同じ国の中でさらに貧困の差がまたひらいてしまうのではなく

この経済成長とともにどうか現地で暮らす

人々の安全もしっかり確保されるようにと思います。

 

ここで毎朝、目が覚めて思うことは、
今日も普通に目が覚めれて幸せだなぁって

またいつもの朝がきて嬉しいなぁと思います。

 


ここにいてもあー平和だなぁとほのぼのする日も

もちろんあります。

 

次のブログの更新は

ほのぼのしたことを書きますね。

 


うちの猫がまた子猫を4匹産んで、

あと犬も3匹昨日の夜に子犬を産んで

家の中で産んだので

にゃーにゃーきゃんきゃん可愛いです。

 

 

写真。

 うちの窓、しっかり鉄格子です。

最初にみんなの家が鉄格子で、
なんだか檻のなかに住んでいるみたいだなぁって

思ったことがありました。
でも今はこの鉄格子のおかげで安心がもらえます。
ピンクのは蚊帳です。

 

ちなみに貧しいおうちは
貧しいみんなにとったら
窓ガラスと、鉄格子はかなり高額なので

窓はない土とわらでできたおうちです。

 

 

 

協会の子供たち。

みんなでお絵かきしました。

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

栗山さやか | お知らせなど | comments(10)
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