失明している子たち。

 エチオピアで失明している人をたくさん見かけました。


 施設の中だけではなく、外を歩いていても失明した物乞いのかたも
 子供たちもたくさんいました。

 失明した家族をつれて、物乞いをしている
小さな4、5歳ぐらいの子供たちもよく見かけました。
 
今いるモザンビークでも、ちらほらみかけます。


ある時、お父さんもお母さんもお姉さんらしき子も失明してしまっていて
その3人を小さな男の子が引き連れてゆっくり一列に並んで
歩いている光景をみました。

目の見えなくなってしまう原因は、

たくさんあると思いますが、
細菌感染や栄養失調からくる場合が貧しい国ではとても多いと思います。

ほかの国にいたら防げるはずのことなのに。。


エチオピアの施設にいたときに新しい患者さんがきました。
ユリガートという名前の16歳だといいました。
その子は、施設にきたばかりのとき
二日間ずっとベットに横になっていて
眠っちゃっているのかな
手当てが必要かなって思い、話しかけてみると、
両目の黒目の部分が、白くなって飛び出しており、 
あっ両目とも見えてないんだなって思いました。
 
 顔を見てみると、ほっぺから首のまわり全体にかけて
 ただれたのようになっていて血と膿と皮もめくれてしまっています。
 皮膚結核の症状がでていました。

 その子は、たどたどしい言葉を話す私を最初はすごく
 警戒して困惑していました。
 
 毎日、手当てをしていくうちに少しずつ話すようになってきて 
 日本という国を知らないユリガートは私の髪の毛、顔を触るのが
 すきでいつも触っていました。

 こっちの子はエチオピアのこともあんまり知りません。
 村出身の子たちは、自分の村のこと以外のことはあんまり知る機会が少ない子が多いです。
 もちろん外国のことも地球ってことも知りません。

 目のみえないユリガートは、ただ言葉が同じでない人
 としか思ってなかったと思います。

 手当ての後に、耳そうじしてあげていたら
 ユリガードの目から涙が出ているのがわかりました。
 
 ユリガードどうしたの? どこか痛いの?
 ってきくと、

 私、病気にもなっちゃった。 私何にも見えないのに。 
 っていいました。
 
 私は、彼女の目がよくなることは難しいこと
 ドクターから聞いていました。

 ただハグをしながら大丈夫だよっていうことしかできない私のそばで、
 それをきいていた、違う施設から移ってきたばかりの10代後半ぐらいの子が、

 「 あのね、 違う施設にもこの施設にも
 もっともっとすごく体、めちゃくちゃなひとや、 たくさんたくさん
 毎日痛い思いしている人がたくさんいるんだよ。 まだまだ
 ユリガードは健康なほうだよ。 私も足ないよ。
 でも悲しくないよ。」

 って太ももまでしかない自分の足をじっとみて言いました。
 
 それをきいていたユリガードはそれから少し変わりました。

 たくさん笑うようになったし、顔も自分で洗えるようになって
 お手洗いも自分ひとりで行く努力をはじめました。

 なんだか少し大人になったようなユリガードに
 感動しました。
 
 ユリガートは前まで、手当てのとき以外
 ほかの子と二人で交互の向きに寝てつかって
 いる小さなベットに体を小さくしてじっとしている毎日でした。

 でも、施設のそばの教会に行くことは患者さんも
 許されていたので、夜6時半から始まるアドレーション(礼拝のようなもの?)
 には手当て、その時間抜け出せれたらときどき連れて行ってあげていました。

 そのアドレーションではクリスチャンのかたたちが
 歌を歌ってその歌を聴くのがユリガートは大好きなようでした。
 夕方になるとベットのすみに座って黒いプラスチックの靴をしっかり履いて
 私が迎えにくるのをうれしそうに待っていてくれていました。

 ときどき、手当て一区切りつかなくて、教会につくともう
終わる5分前だったりして「あー遅くなっちゃって本当にごめんねっ」って
謝ると 「チャラカと教会までの道、
手をつないであるけるだけで嬉しいの。だから気にしないでね。
 今日はいつもより寒いねー。」
ってくっついてきて。

私がほかの患者さんと病院に朝からいっていて、
施設に戻ってくるのが遅くなると、ユリガートと同じ病室の子達が
「チャラカー、ユリガードがチャラカが今日はこないって朝から
ずっと泣いていてたいへんだよー」って教えてくれて。

いつもそっと近づいて声、男声にしてユリガードっていかつく呼ぶと
嬉しそうに「チャラカーチャラカー」って私の手握って。

他の患者さんともたくさん仲良くなって、他の患者さんも
手をひいてゆっくり日なたぼっこにつれていってくれるようになって。

施設のみんなびっくりするぐらい優しくて、
一人2粒づつ支給されたみんなにとって貴重な貴重なキャンディや
小さなバナナ一本だけ支給されたとき、みんな大好きなのに
具合の悪そうな子にあげたり、私にまでくれようとして。

大勢いる寝たきりの患者さん同士、
助けが必要だけど声がでない子や、吐いてしまっている子
仰向けのままだと吐しゃ物で窒息死してしまうから、
患者さんみんなで私やワーカーの子に
「あの子今吐いちゃってるよーいってあげてー」
って教えてくれたりいつもしていて。

私はいつもどうしてみんなこんなに苦しくてどうしようもないのに、
この優しさはどこからくるのか、家族というものを知らない子も多い中、
誰が教えてくれたのか、不思議にも思い、とても嬉しく思っていました。

栗山さやか | | comments(0)

エチオピアの基本情報。

今更ですが、エチオピアの基本情報です。

 エチオピア。
 私行く前まで持っていたイメージは、貧困のこと、HIVのこと、ジャマイカと
 関係があるらしい?(ラスタのこと)、南京虫のことぐらいでした。
 
 面積。     日本の3倍ぐらい。
 人口。     7000万人ぐらい。(日本の半分強ぐらいかな。。)
 部族。     たくさん。
 識字率(読み書きできる率。15歳以上)
          40パーセント(いつも思いますが、これってどうやって調べてるんだろう。)
 
 エチオピアはアフリカ諸国がどんどん奴隷貿易や、象牙、金、ダイヤモンド
 などのためにヨーロッパ諸国に、植民地化されていっても唯一、
 独立を守り抜いた国で、数年間だけイタリアに占領された時期も
 ありましたが、すぐにイタリア軍撃退に成功して、そのため、あんまり
 ほかの国の文化が入ってきていません。
 でもコーヒーが発見された国で、コーヒーおいしいです;)
 
 エチオピアは、1年間が13ヶ月あって
 最後の13ヶ月目は5日間だけで
 新年の準備の月です。
 9月の半ばが新年です。
 日付も変わるのが、夜中の12時ではなくて、朝6時で、
 朝6時が0時になるので、エチオピアの子に朝のの9時に
 時間を聞くと、 3時だよーて答えが返ってきます。

 エチオピアの習慣で嬉しかったのが、
 会釈する習慣があることです。
 
 あと、公用語、英語って明記してある本もありますが、これは、きっと
学校教育がグレード1から12までで、グレード4からすべて教科書
英語で書かれています。ワーカーの子たちがお昼休み、教科書を広げて
勉強いつもしていました。 グレード7の子の教科書、見せてもらったとき、
問題から何からすべて英語の数学とか科学で私にはちょー難しかったです。
でもほとんどの子は、英語しゃべれません、でも英語で勉強して
 難しそうな問題解いてます。
 ナースの勉強をしているワーカーの子も、英語あんまりしゃべれません。
 でも英語でちょー難しそうな本勉強しています。
たぶん、話せないのは英語を話す機会が少ないからだと思いますが。
優秀だなぁって思いました。
でも全体的にみると、ケニアや、ザンビア、マラウィに比べると
首都でも英語話す子は確実に少ないです。
 
 イギリスの植民地だったから
 ケニアやザンビアと小さな売店のおばちゃんも英語話すし、
 マラウィも英語でどんどん話しかけてきてました。

グレード1の子たちの教室にいくと、5歳ぐらいの子と一緒に
15歳ぐらいの子が勉強していました。
学校に通える時間と、テキスト代などを支払う余裕ができたときに
はじめて通うことができるから年齢は関係ないそうです。

ワーカーの子達は、朝7時前には、仕事にきて、
夕方6時まで働いて、それから学校に夜間通っている子がほとんどでした。
お昼休みしっかりありましたが、それでも患者さんに呼ばれたら
関係なくみんな患者さんのお手伝いしている子も多く、
睡眠時間大丈夫かなって思っていました。
夜間働いている子は、夕方5時から、朝7時まで働いて、
それから学校にいって、その後睡眠をとっていたようでした。
ワーカーの子は10代半ばから20代半ばの子たちが
多かったですが、みんなたくさん勉強して、たくさん働いていました。
患者さんと同年代の子達が多かったので、
みんな時々けんかもしていましたが、
とても仲良しでした。

ワーカーの子の一人の22歳の女の子。
少し英語ができたのと、いつもいつも患者さんに対して一生懸命、尽くしている子で
私はこの子からたくさん学んだ気がします。

ワーカーの子と外で会うことは禁止されていましたが、(過去にワーカーの子が海外のボランティアの子に
いろいろ金銭的なお願いしたりものをねだることが何度もあったため)
一度だけ私のお誕生日の日泊まりにいかせてもらいました。
近所の子達もきて、プレゼントとケーキの代わりに大きな丸いパンかってくれて
コーヒーとインジェラ作ってくれて。
施設から歩いて30分ぐらいの小さな一部屋だけのおうちにお友達と住んでいました。
台所とか水道、お風呂場とかなく、(みんな空き時間に施設の水使って体洗っている)
おトイレもないので洗面器で、私はこのときはじめての体験だったから
恥ずかしがってたら、じゃ、私もっって一緒に洗面器にして(しかも私の尿捨ててくれた)

施設でみんなが亡くなって泣いてばっかいると、
いつもハグをしてくれながら、
 
「チャラカーみんないつかは死ぬんだよ。 チャラカも私もみーんなみーんな。
 それに死んだらもうみんな苦しくないんだよ。神様のそばにいれるんだよ。」って。

施設でいつも一緒にいたし、いつも助けてくれたり励ましてくれたり。
今でも大切なお友達です。 今もお仕事がんばっている時間帯だなー
なんて思ったりしてます。


 エチオピアは、私がいたとき、1999年でした。
 先月やっと2000年になりました。 (エチオピアは、独自の暦を使っています。)
 きっとアディス盛り上がっていたんだろうなって思います。
栗山さやか | | comments(0)

トラブルと強盗のこと

 旅して危険だと思うことはだいぶあります。 


 どこにいても危険はつきものだと思いますが、 
 すごい怖い国のイメージのあったシリアやレバノン、ジョルダンなんかの中東は
ただの一旅行者としては、逆にとても安全で、
モスリム圏がこんな安全でみんな親切で感動したの覚えています。

一人でいった最初の国、バングラデッシュの安宿で
夜中、自分の部屋のドアをどんどんいきなりノックされてとても怖がっていたら
ドアを開けずに部屋の中で固まっていたら、

「ドアにカギをつけっぱなしだよー」と外から教えてくれて。

ベトナムのホーチミンで、夜歩いてたら、いきなり話しかけられて腕つかまれました。


とっさのことでひぃーっと思うことしかできず固まっていると、

しっかり腰にまいたつもりの
パスポートも現金も全部入ってるマネーベルト、
腰から外れて落としててそれを教えてくれていました。

シリアでは、道を歩いていると「ウェルカム トゥ シリア」って挨拶してくれる人々が多く、
うれしいなぁと思いました。

やっぱり比較するとアフリカの多く国では、

危険さはだいぶ高いと思います。

 

街灯がない道も多く、

たまたま強盗たちに出くわしてしまったというのもあると思いますが、
夜や早朝はかなり危険だと思います。


夜になると強盗がたくさんになる可能性は

モザンビークは高いと思います。

夜6時ぐらいからもう暗くなる時期は、

一人じゃ外出ないようにしてます。

 

エチオピアは首都のアディスでも、夜間、外国人が道を歩いたり、

乗合ワゴンのバスにのっても全く問題はなかったのですが、

それでも、一度マルタ出身の女性が、何も持たずに明け方歩いていたら襲われて、
殴られて、でも何も持っていなかったので

履いてたスニーカー脱がされて持っていかれてしまったこともありました。

 

着てた服も剥ぎ取られて、パンツのみになってしまった男の子の話も一度だけ聞きました。

モザンビークの小さな町で
そこで現地の友達の家族のうちに滞在させてもらっていたとき、

午前中にいつものように、一人でローカルマーケットのそばを
歩いてたら20歳ぐらいの現地の大きな男の子たちに
10人ぐらいに囲まれました。

 

 体押さえつけられて、取り囲んでいる男の子たちはディネーロディネーロ
(お金、お金) って言っていて。

 

ここでは、一人で外に出るときは手ぶらかビニール袋にいれてっていう教訓、

いつの間にか忘れて普通のバック持って移動するようになっていて。

 

「あぁ。やばいなっ」と思い、人通りはありましたが、囲まれてるから
みんなに私の姿みえてないなと思って、
そしたらリーダーぽい男の子が私の胸さわってきて、キスしようとしてきた。


なんでこういう肝心なときに叫び声が出ず、恐怖で鼓動が一気に早くなり、体が震えるだけでした。


でもナイフとか持っていなかったことも幸いし、
深刻な雰囲気なかったからダッシュでなんとか逃げれました。

少し慣れてきた町だったから余計にショックで、やはり悔しかったです。

夜6時を過ぎると街灯がある場所はほんの一部だから
他の場所は月明かりがないと本当に真っ暗闇になり

なにひとつ見えなくなります。

この町にいる外国人(アフリカ人以外)はみんな1回は、
強盗やおどしの被害にあっていると聞きました。

現地の子達でも夜はたくさん被害にあっていて。


ナイフで刺されて殺されちゃうことも少なくなくて、
そこまで大きくない町なのに
私がいた数ヶ月間で2人が亡くなったと聞きました。


あとは、臓器売買貿易(黒魔術に使うため?)も盛んと聞き、

人が誘拐されてしまったり、土葬したばかりの遺体を掘り起こされてしまうことも
少なくないと現地の人々から聞きました。

 

道端で眠るホームレスもいないのも、「この町で道端で寝ていたら誘拐されたり殺されてしまうからだよ」と。

 トラブルで悲しかったのが
 道歩いてたら、突然目の前に車が止まって移民局の人が
 私のパスポート持っていってしまいました。


 理由もきかずに没収されてしまい、びっくりして、移民局にいくと
 「明日来い。明日話すからっ」て。


 次の日行ってみると、

罰金を要求されました。

アフリカ滞在2ヶ月分ぐらいの額の。。。


 日本大使館に連絡してみましたが、、

「そんな風に取り締まりがあるなんて今まで聞いたことがないです。何か恨まれる覚えは?っ」て逆に聞かれてしまい。。

でも話を聞いていただけただけ、嬉しかったですが。


 日本大使館のある首都からはすっごく遠いしもうどうしようもないようにかんじました。


 ビザがちょうど切れる直前だったので、ビザ切れたら不法滞在で大問題だし、片言の英語で
 お金もってこいって繰り返すだけで。


 でも結局、外国人が観光ビザで入国した場合、

 現地の人の家に滞在することは、違法で、その罰金とのことでした。

 (その後事前に許可をとれば可能になったと聞きました。詳しく情報は現地の移民局で教えてくれると思います。)

 ただ、滞在日数が数日だったのにも関わらず、倍ほどの日数として

 計算され、そのことへの抗議は聞き入れららず。。

 

 こういったとき、どこを頼っていいのかわからず。。

 事前にしっかりとした情報収集をしなかったことを反省しました。


 いつだったか、目の前で警察の四駆の車が

 人混みの中スピードだして走ってて
 その弾みで後ろの荷台に乗ってた箱の中から、歯磨き粉が大量に落ちました。


 そうしたらその場にいた人混みの人たちが、

 いっせいに奪って走って逃げて、そしたら一気に
 体格のいい警察のかたたちが
 そこまでしなくてもっていうぐらいみんなをぼこぼこに殴っていました。

 
 危険なこと、寄生虫にいつもやれること、
 トラブルをあげたらどこにいてもきりがありませんが、
 やぱっり言葉の問題、警察の人を信用できる可能性の低さ、
 時々誰を信じていいかわからなくなることもあって、
 しっかり休憩しているし、自分で決めてここにいるんだし
 それに何より健康なだけありがたいのに、
 ここ数週間やけに疲れていました。

 でも今はインド人の子たちといて言葉が通じるのでほっとしています。

栗山さやか | | comments(3)

モザンビーク

3ヶ月以上更新できずにいました。
コメント返信ができず本当にごめんなさい。
 
今はまたモザンビークにいます。
 
私のパソコンは早速調子が悪く接続ができず
あと日本語読み書きができるネットやさんがずっとずっと見つからず
3ヶ月も経ってしまいました。
 
やっとやっとやっと日本語が読み書きできるネットやさんが
ある町にこれました。
今はモザンビークの北東部、ジンバブエとの国境の近くの町にいます。


しばらくモザンビークの東海岸沿いの町の
前にも書いた施設に戻っていました。
この施設はたくさん子供たちがいて、
病気の子もHIVの子も多く、
深刻な問題をかかえていますが
無邪気な笑顔が本当にかわいくて。

本当はもっと長く働く予定だったのですが、
この施設ではボランティアは寝泊りできないので、
近くの安宿から一人で通っていて、
施設へ行く途中の道で、
1週間に2回も日中襲われて(結局痴漢だけですみましたが)
泊まっていた安宿にも、
夜中蚊と戦いながら寝てたら、叫び声が聞こえて
となりの部屋に泥棒が入って、
犯人はありがちな従業員の男の子たちだったみたいでしたが。

ビザの延長も言葉がうまく通じず、
結局またがんばって移動してマラウィに戻ってビザ申請して
またモザンビークに戻ってきました。

モザンビークの北部の小さな町で知り合った
マラウィの男の子。

彼は一人で現地の人たちを雇いながら
村の子達を救うための活動をしていて、
とたん屋根の6畳ぐらいの大きさの
小さなオフィスだったけど、
彼は大学を南アで2つ卒業していて、
たぶんエリートに入る人なんだと思う。

それでもこの小さな町で、
貧しい子達ために自分も最低限の生活をして
仕事をしている彼に、話をきかせてもらいながら、
すごいなって思いました。

アフリカに1年以上いるけど、こんな風に
アフリカ出身の子がアフリカの子達のためにここまで
一人で活動をしている人をみたことがなかったから。

私が今までみてきたアフリカの
エリートや裕福なうちの子は、
上を上をどんどん目指すし、
やっぱりどこでも良くも悪くも同じかもしれませんが、
お金を手にしたらもっとお金を手にしたくなる人が多い中で、
こんな風に自国や隣国の悲しい問題に向き合えて。

彼は自分の家族はマラウィにいて1年に会いに帰れるのは数回のようで
それでもここで頑張れる理由はなんだろう。きっかけはなんだったんだろうと思ってきいてみました。

彼もマラウィの南西部の小さな村の生まれで、
小さい頃、病気で痛くて苦しくて
泣き叫んでも誰も耳を貸してくれなくて
いつも差し伸べてもらえる手がなくて、

そのことをずっと忘れられずにいて、今こうして働いているよ。
やっぱり子供は一人で大きくなれないからね。
って暑い中、お豆のお昼ごはん準備してくれながら
教えてくれました。

人に2つの手があるのは、 ひとつは自分を守るため、もうひとつは、
人を助けるためって張り紙で見たの思い出しました。

私はただふらふらして、
もうずっと日本のかたにも
バックパッカーのこたちにもあってなくて、
モザンビークは英語もほぼ通じないので、
トラブル続きで
心細くて気弱になったりもしていましたが、
しっかりしなきゃいけないなって思いました。

いまは、モザンビークにあるインドの会社のお手伝いのために
ゲストハウスに滞在させてもらっています。
久々に水道がある環境で、トイレも地面に穴じゃないので
だいぶ贅沢な気分です。

モザンビークは南半球になるのでずっと寒かったのですが、
だんだん暑くなってきて今いる場所は、日中40度以上です。
ハエも蚊もますますたくさんです。
栗山さやか | | comments(2)
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