胸が痛くなること。

日本でてから、もう50カ国ぐらい旅してきました。

アフリカ大陸を旅して、エジプトも含めると、
今は8カ国目になります。
エチオピアの物乞いの
路上生活の人達の数は、
今まで行った国の中でも、群を抜いていると思います。

首都などの都市、どの国でも悲しいことですが、
物乞いのかたいると思います。

でも、エチオピアでは、
地方の町にも小さな町にも
本当にたくさんの物乞いの子達、人達がいました。

地方の施設に何箇所かいったとき、
施設によって支給するものはばらばらですが、

南部の施設にいたときに、
週に1回、インジェラ(主食)を作る粉と
インジェラを作るオイルを無料で配っていました。
前日の夜から、施設の門の外に、
支給を待つ人達がみんなで眠って
朝が来るのを待っていました。

朝5時前に、人達の声で目が覚めて、
まだ暗い外にでてみると、
数百人の人達が、冷え込む朝にもう待っていました。

朝8時に粉とオイルの支給がはじまります。
500人以上のかたたちが嬉しそうに待っていました。
最初にみんなでお祈りを捧げて
それから現地のワーカーの子と
粉まみれ、オイルまみれになりながら、
支給のお手伝いしていました。

北部の施設にいたとき、
夜明け前のまだ薄暗くしーんって静まり返った町に
でたとき、
町の一番大きな道路の両脇に、
薄暗い中で、
たくさんの人達が横になっているのがわかりました。
ずらーと何百メートルも本当にたくさんのかたたちが
みんなでびっしり眠っていました。

ここの地域の施設では、
毎日、コップ1杯のミルクと、
ビスケット一人6枚支給していました。
支給のお手伝いをしながら、
みんなが美味しそうに飲んで
食べる顔がとても嬉しかったです。

北東部の施設では、
お米と、オイルを毎週月曜日に支給していました。
みんなが大切そうにもってくる、
お米を入れる袋、
本当にぼろぼろで
小さなバケツ一杯分のお米いれてあげて、
そしたら袋がぼろぼろ過ぎて
全部こぼれてしまったり、
よたよたした小さなおばあちゃんに
どうやったらこんな重たいお米とオイル運べるのか
いつもはらはらしていました。
でもそういう時は決まって、
若い男の子や女の子たちが助けてくれていました。

この地域は、日中、本当に暑くて、
それでもみんな暑い中、お米とオイルもらうために
何時間もかけて頑張って歩いてきます。

1000人以上の方々が毎週来るので、
待ち時間も、暑い日差しの中、長く、
それでもお米、
袋にいれてあげたときの本当に嬉しそうな顔を
みて、私も嬉しくなっていました。

エチオピアには小雨期、大雨期あります。
この施設に一緒にいった、スイスの女の子と、
夜眠るとき、
二人で色々いつも話していました。
 
小雨期に入りかけた時期は、
太陽がある日中は暑くても、
夜はかなり冷え込みます。
夜、眠る前、大雨が降っていて、
部屋の中にいてもお互いの声が
良く聞こえないほどの大雨で、サンドラが

「さやかー想像できる?
こんな寒い大雨の夜の中、
みんなどうやって路上で眠るの?」

二人で、
もしもこの子たちがうちらの国に
生まれていたら。ってよく話していました。

ただ、安全で安心できる場所が、必要だと思いました。

レイプや暴力、肉食のハイエナやハゲタカから
身を守れる場所
日本みたいに屋根のある建物がないから
みんな雨が降ったらずぶぬれで、
体もとても冷えてしまうし、
病気や雨や寒さをしのぐ場所、
安心してぐっすり眠れる場所。
1日2食でもいいから食事の確保、
時々はおなかいっぱい食べれるだけの食料。
細菌ばかりの泥水のようなお水ではなく、
しっかりきれいな飲み水。
雨の降らない乾期は川のお水もなくなってしまうから
何ヶ月も体を洗えない状態で衛生状態の悪化、
それを防ぐこと。
最低でも病気の痛みを和らげるお薬。

学校とか仕事とかの前に、
人として生活していくうえでの
ほんとうに最低限の
安全であること、
薬が手にはいること、
飢えないことが
難しい生活。


エチオピアは今だに100年以上前から断続的に
戦争し続けているっていわれています。
隣国のエリトリアやソマリアなんかと
今も緊張状態にあります。

そのため、国は防衛のためのお金、
戦争のためのお金
国も経済も政府も戦争によって混乱して、
国民のみんな、特に貧しい生活の人たちは、
もっと混乱した中で、
他国からの援助支援なんかも
本当に援助を必要としている人には
ほとんどいってなくって、
きっと戦争のための武器や
装備に使われていたり
賄賂だったりに使われているんだと思います。

5歳になるまえに亡くなって
いってしまう子供たち。
5人に1人、4人に1人の割合とも
いわれています。

下痢になっただけで、生まれたとき、
生まれる前から極度の栄養不足の状態の
小さな体は、
とても弱く、脱水症状になって
しまったりして
亡くなっていってしまいます。

どうしてうまくいかないんだろう。
みんなたくさんは望んでないのに。
ただ普通の暮らししたいだけなのに。
いつもいつも思って、
他のボランティアの子たちと
たくさん話しをしていました。

こんな苦しい状態のみんな目の前でみて、
たくさん話して、
みんながどれだけ苦しんでいるかわかっているのに、
それでも、旅、もう止めて、
私の今持っている日本で貯めたお金全部使って
そのこたちに尽くすことしてない自分がいて、
私はいったい何なんだろうって。
一番ひどいことのような気がして。

今でも考えて思ってわからなくなって。
これでほんとうにいいのか、

苦しむ国のひとたちを、
みてしまうこと。知ってしまうことが
こういうことだったんだって。

自分の弱くてずるい気持ちが
はっきりわかって。
今でもずっと考えています。
ぐちゃぐちゃな文章でごめんなさい。
| ボランティア | comments(13)

親からのメール。

エチオピアの施設で、
現地のワーカーの子に
日本の家族のことを聞かれて話をしながら
薬品の整理していたら
管理の初老の女性が、そばでそれをきいていて、

「あなた、ご家族いるの?
私あなた一人で生きていたから
こうして働くんだと思ったわ。 
あなたは、いつも笑顔でいるか、
誰かが亡くなって泣いているかどちらかね。
あなたの国の人はみんなそうなの?」

「あなたしばらくここにいるけど
ご家族心配してないの
日本はとても遠いでしょう。」
 
これは、旅をしていてもよくされている質問です。
私、もともと日本で8年も離れて家族と住んでいたけど
やっぱり日本国内で離れて住んでいるのと海外とじゃ
心配して当たり前かなって思いました。

今回、南アのジョハネスブルクで
待ち合わせしていて
パソコン持って来てくれたアメリカの
70歳になるお友達、スティーブンは、
エチオピアに私がいたときも
わざわざフライト変更して会いにきてくれました。
  
彼はザンビアでプロジェクトがあって
私がエチオピアにいることをいって
ザンビアに行く前にアメリカからエチオピアに
2日間だけだったけどよってくれました。

旅をしていて、自分が違う国の友達のとこいったり、
仲良くなった旅人と別の場所で
待ち合わせしたりとかはあっても、
友達が私を訪ねてわざわざきてくれるのは
はじめてだったからすごく嬉しくて、
彼をアディスの空港まで迎えにいって、
(嬉しすぎて油断して警戒度が下ってしまったのか、デジタルカメラを盗まれてしまいましたが。。)
彼に私がボランティアしている施設を
案内してまわっていたとき、
その途中彼はずっと叫んでいました。

「長いこと僕は生きていて色々みてきたつもりだけど
こんなに感動したこともう随分なかったよ。」

「君のご家族はこのこと知っているの?
患者さんがどんなに苦しんでいても
とびきりの笑顔で君にハグとキスをすること。
君が汚物だらけの子を丁寧にきれいにしてあげてること
手足がなかったり、ぶらさがっているだけの子達が、
あごと肩をつかって地面をはって、
君に抱き上げてほしくてやってくること。
君は写真かビデオをぜひ撮っておくるべきだよ。」

その言葉で、数ヶ月前、
お母さんからきた手紙を思い出しました。
心配している文章と、あと、
 
「日本で普通に育ってきたことで
優越感にひたっているのはないですか?
そんな風に想っていたら
エチオピアの子達に嫌われますよ。」
     
忙しく毎日働く中、
少し悲しかったのと、そうなのかなって思いました。
あんまり忙しくて、どういう気持ちで自分がいま
ここにいるのかとか考える余裕なくて、
毎日忙しくて、ネットやさんにいく時間もあんまりなくて、
もともと電話代の値段気にして
ほとんど日本に電話もしてなかったし、
自分の両親が心配しているのは当然かなって思いました。
海外にいったことも、飛行機に乗ったこともない
お母さんだったし。

ボランティアについても
色々な意見があると思います。
 
でも私は、自己満足でも、
実は、ほんの少ししか役に立っていなくても、 
私がされる側の立場だったら、
全然知らない人からでも、ほんの少しでも
気にかけてもらえて、
おはよう。今日は調子どうですか?って笑顔で
声を掛けてもらえるだけでも、
それだけでも、やっぱり嬉しいんじゃないかなってこと、
たった一言話しかけられるだけで、
ほっとしたり、あったかくなったりする気持ち
あるんじゃないかなってこと、エチオピアの施設で
過ごして思いました。

つい最近も、父親から、

「アフリカにいつまでいるの。
女一人でアフリカは、危険がいっぱいに見える。
なるべく早くアフリカ大陸を離れて欲しい。」
ってメールがきました。

短大を卒業して、
109のショップに就職して
まだ準社員だったし、
長時間労働で立ちっぱなしの職場で。
上下関係も厳しく。。


お給料も少なく、(時給で計算すると800円以下だったような。。)
どうやって家賃払って、
髪型のお金とか化粧品、ネイルなど
やりくりしていこうかとても貧乏でしたが、
会社は、見た目に手を抜いたら、クビと言われていたし、
肌黒くなくてはいけなくて、
日焼けサロン代も友達が日サロで
バイトはじめてただ焼きさせてもらえるまで
かなり痛い出費でした。

 
実家も金銭的にもたいへんなときで、
それに親には短大でてから金銭面で頼るのは絶対にいやでした。


多くの人がそうだと思いますが、
大根、もやしをゆでたり、
卵掛けご飯、マヨネーズご飯、
ポテトチップス、お菓子ばかり食べて
食費を削っていました。


今思うといい思い出ですが。。



今回海外に出てきたときも、
何かあったときや、薬などの荷物を送ってもらうときのために
ある程度のまとまったお金を通帳に入れて渡してきました。


自分で貯めたお金が無くなったら
帰ってくるだろうって思っていたようですが、
もう1年半近く帰らずにいるからたぶんとても心配をさせてしまっているなぁと思いました。

でもアフリカ大陸をもう少し、
国のこと、人々の生活のこと、

見てみようと、ちょうど決めたときにきた
メールだったので、どうしようと悩みました。

「安全な町を選んで移動しているから大丈夫っ」てメールを
父親に返したら、

「そうか。さやかが安全っていえばそれなら安心だ。
実際現地に居るんだからね。
今、世界中何処に居ても危険が溢れてる。
世界中の宗教が 人の命の大切さを説いているのに
自国の利害で平気で殺しあってる
いつまでたっても世界の何処かで戦争してる。
お父さんは超強力な宇宙人が
世界を支配してくれた方がい いと思ってる。
パワーがあって世界のすべてを支配しても、
でも全ての命を大切にする
神様が現れて欲しい。
この無駄な戦争によって亡くなった人達…可哀想だよね。
それぞれの大事な時間は戻らない。
さやかも自分の信念にそって生きてくれ
安全で有意義な毎日を送れる事を祈ってる。 頑張れ」

ってメールが来て、涙が出ました。
 
こんな風にメールをくれる家族がいるだけで
私は本当にとても幸せだと思いました。

このメール読んだとき、
モザンビークの捨てられてしまった子達や
HIVや病気の子たちの施設で少しだけお手伝いしていて、
ここの管理の人たちは、

「HIVはにんにくやトマトをしっかり食べたら
HIVポジティブ反応が出た子が
HIVネガティブになってHIVが消滅するのよ。」と、真剣に話していて、
ここには他の国のボランティアの子達はいず、
私一人で「そんなことはないと思います。

薬が必要」と否定をしていて

苦しい状態のときだったから嬉しかった。

ビザの関係やイギリスの会社を手伝うために
別の場所に移動しなければ
いけなかったので、長く働けませんでしたが、
またいってみようと思っています。

父親からまたメールがきて、
「アフリカのその町並みとか
お金の価値(いくらで暮らせるとか食べ物の値段とか)
人々のは収入源は何かとか
どんな建物 どんな服装 価値観 習慣 教えて欲しい。
そうすればお父さんもサヤカと一緒に旅ができる」

みくしにそういったことも書いていこうと思います。
父親が娘のみくしみてるってなんか変かなと思いますが。


母は父から話を聞いているようで、
今ではただただ早く帰ってきなさいとメールが来ます。
 

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