バイユシのこと。

いつも、ぽつんと一人で、
ヤンキー座りをして
日向ぼっこをしている子がいました。

バイユシってゆって
少しだけ変わった顔立ちをしていました。

体はがりがりで、
髪はエチオピアの子にしては珍しく、
そこまでグリグリした髪質ではありませんでした。
目がとても大きく、男の子のような顔立ちで、
目つきが鋭い印象でした。

いつも私がそばを通って挨拶すると、

挨拶もせずに、
「チャラカースウィーツっがたべたい 。
ちょうだいよー]といつもおねだりしてきてきました。

「最初にあったらおはようだよー
バイユシ。おはよう-。
バイユシは、自分で何でも食べれるし、
ひなたぼっこもできるからだめー
具合が悪い子だけだよ。ごめんね。
それに きのう、キャンディー支給されたでしょー」

いつも
「ちゃらか 意地悪―ぶさいくー」
って
ゆってそばをうろちょろするかんじでした。

彼女もHIVポジティブで
股間に大きな腫瘍がありました。
この腫瘍のせいで、
しっかり椅子やベットに座ることが出来ず、
いつもヤンキー座りでした。

他の患者さんとそこまで交流を持ちたがらず
いつも一人でいました。
この子の腫瘍も少しずつ成長してしまっていました。

最初の 3ヶ月ほどは、
ひたすらアディスの施設にいたのですが、
ひとりの女の子のが亡くなったのをきっかけに、
あと女性の棟で働ける新しいボランティアのかた
がきてくれたのもあって、

私はアディス以外の場所
みんながいう、村やほかの場所も
みてみようと思って
地方にある施設にいくように
なりはじめたときでした。

ある時、1週間だけ南部の施設に
お手伝いにいって戻ってきました。

いつも外で日向ぼっこしていたバイユシが
ベットに横になっていたので
おかしいなって思って話にいくと、

[ちゃらかー いきなりね、朝起きたら
両手も両足も体が動かなくなったの。
頭だけは大丈夫。]っていいます。
あんまりに突然のことで。

バナナが大好きだったからゆっくり食べさせてあげて
すごく食欲はあって少し ほっとしました。

HIVのことが気になりましたが、一時的なものだといいけ
ど、、って思いました。

それから少しして
今度は北部の施設にお手伝いにいくことになりました。
バイユシに[あと1週間で帰るからね。待っててね。]
っていいました。

バイユシは、
[次の日曜日に帰ってくるんだねっ]
て念を押して聞いてきました。

わたしは、[ うん。 日曜日に戻るからね。]
って答えました

私もそのつもりだったのですが、
戻ってきたのは10日後でした。
途中でもらったバラの花
バイユシに上げようと思って、
夜、アディスについて,
急いで
バイユシのところにいくと、
違う患者さんでした。
うそって思ってみんな に聞くと
みんないつものように
一生懸命嘘を
ついてくれているのがわかりました。

[バイユシ いつ...どんな風だった...]
ってゆっくりきくと
日曜日だよっていいました。

あって思いました。
バイユシ約束どおり
私が帰ってくるの待っていたんだって思いました。

[ バイユシ いつも今日、
日曜日?って毎朝,聞いてきていたよ。]って。


少しの用事でアディスに帰ってくるのが
遅くなって約束を破ってしまった形になって。

静岡の親友が亡くなる前,
私が会いに来るのをまっていてくれたとき、
私の母親が、病気で待っている人にとって、
待つってゆう時間は
恐ろしいほど長いんだよ。
っていった言葉思い出しました。

1週間バイユシにとったら
すごく長くて、遠かっただろうなって
思いました。

軽はずみに1週間っていっって
戻ってこなかった自分が
本当なにやってんだろうって
思いました。

なんであのとき、違う施設いったんだろう。
なんで、あのとき、早く帰ってこなかったんだろう。

いつもこういう風なことの繰り返しで
いつも罪悪感と後悔で
いっぱいでたまらないくせに
また同じようなこと繰り返して。


マラウィは今は 雨期が終わって、
日中は日差しが強いですが、
冬に向かっている感じです。
朝晩、吐く息が白くなりました。
それでも蚊がたくさんいます。

今日は、9歳からの親友の亡くなってしまったけど、
28回目の
お誕生日です。
あとから、おばさんに
電話いれてみようと思います。
| ボランティア | comments(0)

国の人口。

エチオピアにいた時、

広い視野で物を考えれずにいました。
目の前のことだけで精いっぱいで。

でも、今エチオピアを離れて、
今振り返ってみて、
思うこと、考えること、たくさんあります。
広い目線で、HIV、国のこと、考えたり、
尋ねたり、疑問に思ったり、調べたり。

ナイロビのあと、
バスでタンザニアに向かいました。
ここで、地方自治体の方たちが
HIVの方たちを
支援している施設あって
少しばかりの寄付金をおいてこようと思って、
あとお話もきいてみたくて訪ねてみました。
 
ここの施設では、無料で毎日血液検査を
実施していて、
その待っている間、
HIVがどんな風な病気で、
感染についてのこと、
けして差別や誤解をうまないように、
しっかりした知識を。
そういう
ビデオをひとつテレビがあって流していました。

私が訪れた日も
たくさんの人が待っていました。
タンザニアでは、医療費は無料だということ。
 
教育も無料だということ。
学校に通うにあたって
必要な教科書代だったりも
支援する団体がここ数年で
たくさんできて、
かなり進学率があがったこと。
 
タンザニアでは、
レプラシー(ハンセン病)のかた
が多かったように思います。
 
でもタンザニアも、ケニアも
マラウィもエチオピアに比べると
ぐっと路上のかたが
少なくて、少しほっとしました。
 
ふと、人口ってどうやって数えているんだろうって
思いました。

この施設の責任者の女性にきいてみました。
 
そしたら、
「10年に一度、一軒一軒数えにいくのよ。
前回、2002年だったから次は、
2012年ね。」
って教えてくださいました。

出生届も死亡届もないし、
コンピューターで
管理はまだまだとても
先のことのような気がします。
 
でもこの一軒一軒いくのも
実はかなりおおざっぱで、
村が遠かったりして、
適当にあの村やこの地域は、
だいたいこれぐらいー
っていうのが本当のところのようです。

この待合室で、最初に責任者のかた、
ちょっとどきどきしながら
いすにすわらせてもらって
まっていたら、
ぼろぼろのポスターが壁に貼ってあって、

=誰も一人ではすべてのこと、できないけど
誰でもなにかひとつのことはできるよ。=

ってかいてあって
忘れちゃいけないなって思いました。

| ボランティア | comments(0)

名前。

エチオピアの施設で、
新しく運ばれてきた30代ぐらいの女性に、

「こんにちは。
お名前なんですか?」って
いつもの感じでききました。

少し不思議そうな顔をしていたので、
アムハラ語じゃなくて、おろも語のかたかな?
って思って、
おろも語で尋ねてみても、
きょとんとしていて

あーもしや、しだみんにゃ語、ぐらげ語、
もしやてぃぐりんにゃ語かな。。
 
どの子がしゃべれたかなって思いました。

エチオピアには、
70以上の言語 存在しています。

アディスでは
あむはら語かおろも語が主でしたが、

ときどき、
自分のすんでる一帯で使われている言葉のみの
かたもいました。

どの子に通訳お願いしようかなって、
思っていたら、
名前答えてくれました。

アムハラ語わかるようだったので
あれ? とおもっていたら、
 
なにかつぶやいて、
そばにいた他の患者さんが、

「ママ、久々にひとから
名前きかれたんだって。」
て教えてくれました。

それから
「ワァーガナシママ、お夕飯だよー」

ってお夕飯のプレート
持っていってあげると、
すごくうれしそうな顔をして、

「ありがとう。」っていった
あとなにかいってくれて
 
でもまた私は、
理解できなくて、
隣にいた患者さんが、

「久々に人から名前呼んでもらえた。」
っていってるよ。
 
って教えてくれました。
 
最初に運ばれてきたママを見た時、
長い間、
路上で過ごされていたんだろうなって
わかる格好でした。


このときから、
現地の言葉を覚えることも大切だけど、
まず最初にみんなの名前
しっかり覚えようって
思って、それから、
一人ひとりみんなに名前をきいて
わすれないようにメモして
おぼえていきました。

誰も自分の名前呼んでくれないこと、
きっとものすごくさみしいことだろうなって
おもいました 。
| ボランティア | comments(0)

医大生。

アディスにある大きな病院。

そこには、びっくりするぐらい
ドクターの勉強をしている
エチオピアの子たちがいます。

アディスにもメディカルスクール思ったより
たくさんあるような気がします。

みんな英語で医療のこと勉強します。

たくさんの子たちが、
ドクターやナースになって、
外国で働くことを目指しています。

秋にいた時、
町中の、お店に 2008 DV !!
っていう紙が貼ってありました。
 
USのグリーンカード取得応募紙です。

応募するために必要な写真の費用や
切手の費用が用意できるかたは、
みんな応募しているんじゃないかって
いうぐらいみんなみんな、募集していました。

エチオピアのお給料と格段の違いがあるため、
みんなどんどんチャンスがあればでていきます。

エチオピアのお医者さんでも
個人差はでありますが、
700ブル(9000円)
ぐらいの月給のようです。

「日本はお医者さんは月にいくらもらえるの?
ビザ難しいかな? 」
 
何度かエチオピアの医大生やお医者さんにも
された質問です。

親類の中、たったひとりでも、外国にいけたら、
親類一同助かるってみんな考えて願っています。

国がもう少し、お給料払ってあげれたら
きっと少しでも何か変わるんじゃないかなって
思いました。
 
エチオピアには、患者さんがとても多いって
いうのもありますが、
たくさんメディカルスクールはあるのに、
医療関係者の不足なのはこれも原因のひとつなんじゃ
ないかなって思います。

もちろん、この国でとてもがんばっているこの国の
医療関係者のかたもたくさんいますが。

ケニアの施設にいたとき、
患者さんたちに囲まれて、
若い男の子が手当をしていました。

お手伝いしながら、話をしていて、
ドクターになるために
今大学に通っていて、
ボランティアで勉強の意味も含めて施設で
働いているよって教えてくれました。


見た目は今時の男の子なおしゃれな雰囲気で

でも 一生懸命、ゆっくりゆっくり
丁寧に手当してあげていて。

ふと、「卒業したらどこで働くの?」って
きくと、

「みんな欧米諸国にいきたがるけど、
ぼくは 、この国でしっかりした
医者になりたいんだっ]って。

 
なんだかとても感動しました。
| ボランティア | comments(0)

ツオハイのこと。

ツォハイという30歳ぐらいの女性がいました。

彼女も末期がんでした。
 
彼女は股間におおきな腫瘍ができていて、
いつもたくさんの
膿と血がでてきていました。
 
最初のうちは彼女は
いつも手当てを嫌がっていました。
 
手当ての最中少しでも痛いと、
 
「もうやめて。 今日はもう終わり」
といって、
股を閉じてしまうことがよくありました。
 
またの腫瘍の痛みと重みで、
なかなか思うように歩けず
おトイレも、洗面器を持ってあげて
腰をうかせてがんばってベットの上で
していました。

ほぼ両足をまげて
開いたまま
ずっと寝たきりの毎日でした。
 
最初のうちは、私にいう言葉は、
何かがほしいときだけでした。
 
それでも、
私が少しずつ言葉を覚えてきたせいもあってか
色々話かけてくれるようになりました。
 
そこまで口数が多いようではなかった 
ツォハイだったけど、本当に時々
見せてくれる笑顔がとても素敵で笑顔を
見せてくれた日は私もすごくうれしい気持ちでした。
 
 
ある日、彼女が私を呼んで、
「お願い。どうしても  
外のお店で買った
白いインジェラと
ケーキが食べたいんだけど。
いい?」

っていいました。
 
原則として、何かを患者さんにあげることは
禁止されています。

ですが、あんまりに
具合が悪そうだったのでそういう時は・・
って許可がでていたので、急いで施設の外に
買いにいって、
 
「はい。ツォハイ買ってきたよーっ最初にどっち
食べる? インジェラ?ケーキ?」て
 
プレートにあけながら
いうと明らかに苦しそうで
 
「大丈夫?食べれるかな?」
 
ってゆうとゆっくり手でつかんで
一口インジェラをたべて、
一口ケーキを食べて。
 
それから

「見て。私の股間みて。チャラカ。」

っていいました。

毛布をめくって見てみると、
 
たくさん血が、
どすぐろい血の固まりが 
でてきていました。

どろって流れ出るようにでてきていて
足先まで黒い血でたくさんで。

本当に大きい固まりで
頭ぐらいの大きさでした。
 
私は一度、運ばれてきたばかりの患者さんも
この状態でお医者さんも何もできずに
亡くなっていってしまったことを
思い出しました。
 
止血止めの薬と、その血の固まりを取り除いて、
体をきれいにしてあげて、
急いで、点滴をして、
そばにいると、ただ苦しそうにじっと私を
みていて
話かけても返事、してくれませんでした。
 
もぅ夜遅く、 管理の人もいず、
ツォハイの子供がいる子供の棟に 
明日朝一番でいって
子供を連れてこれる許可をもらって
ツォハイのところにきてもらおうって思いました。
 
朝、早くにツォハイのベットにいくと
かなり弱っていて
呼吸が変わってしまっていました。
 
内線電話はないので、
急いで、子供を呼んできてって
近くにいたワーカーの子にお願いして、
私はその日、朝から病院に患者さんと
いかなくてはならず 
車が待っていたので、
でもツォハイの様子がすごく気になって
しばらく一緒にいました。
子供がくるまでそばにいようと思って。
はやく、はやく赤ちゃんきて、って
思ってました。
ツォハイが瞬きをしない目で
私の目をじっとみて
苦しそうに何かゆおうとしました。
 
でも聞き取れなくて。
そのあとすぐ、目を大きく開いたまま、
私の目をじっと見たまま、
もう動いてくれませんでした。 
  
最後にツオハィのたった一人の家族、
赤ちゃんに会わせてあげたかった。
それが出来なかった
自分が悔しくてたまりませんでした。

もっともっと早くにきて、子供連れてきて
あげればよかった。
 
後悔ばかりで、申し訳なくて
たまりません。
| エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

さなだ虫。

お腹が腫れ上がっている子達。
エチオピアには、
体全体はがりがりで本当に
骨と皮だけなのに、
お腹が出ている子がたくさんいます。

原因はいろいろなのですが、
その原因のひとつに、
マニストリッション(栄養失調)があり、
私も昔にテレビで
飢えに苦しんでいる人たちのニュースを
見たときに、
その体型をみたのを覚えています。
 
栄養失調になるといろいろな症状が体にでます。
そのひとつに浮腫のような症状があって
おなかだけが膨れ上がります。
 
施設にも、何人かの女の子が
体は骨と皮だけなのに、
おなかがパンパンに腫れ上がっていました。
 
さわってみると浮腫との違いは
わかるのですが、
テープワーム(さなだ虫)の子も何人か
いました。
 
テープワームは、浮腫よりももっと
お腹、風船みたいに、はちきれそうなほど
おおきくなります。
テープワームがお腹の中いっぱいにいて
いくらこの子たちが
栄養のあるものを食べても、
テープワームがすべて食べ尽くしてしまうため
その結果、体はがりがりにやせこけて、
テープワームがお腹の中で
大きくなるため、
本当にお腹がパンパンで
しゃがむのもたいへんなほどです。

この施設では、週によければ
1回お肉を食べれる日があります。
その前日、
どこからともなく牛が3頭やってきて、
殺されるのを待ちます。
 
エチオピアの牛はかわいそうなぐらい細くて、
お肉あるのかな、って思ってしまうほどです。
土曜日の朝、患者さんたちもたくさん
みんな見守る中、牛が殺されます。
 
最初は残虐でびっくりしたのですが、
そのお肉を煮込んで
次の日のみんなの大好きな
お昼ごはんになります。
 
数人の患者さんが、
残された殺された牛の皮や頭とともに落ちていた
肉片や皮の部分に少し残ってついている
お肉を手でつかんで口にいれて食べていて、
あーって思いました。
 
テープワームを体に取り入れてしまう
原因のひとつは、
殺したばかりの牛や、やぎなどを
そのまままだお肉が温かい、
血が滴っているうちに食べるからってきいて
いました。
 
口のまわりを牛の血で真っ赤にして
食べてて、

「だめー食べちゃだめー出して出してー」
っていって時々無理やり口の中から
取り出します。
 

日本にいたら絶対モデルだよーっていうぐらい
エチオピアの子達は本当にかわいい
きれいな顔立ちをしているのに、このギャップに
驚いてしまいます。
| エチオピアでのボランティア活動 | comments(2)

一人旅のこと。

日本を出てきたとき、短大に通っていたときからの友人と
一緒に旅をしていました。
たった1ヶ月でしたが、一緒にタイ、インド、カンボジア
ベトナムを旅し、とてもいい思い出です。

それから、一人で旅をしていて、
といっても途中で同じような旅をしている子にあって
一緒に旅をしたり、現地のお友達に会いにいって
滞在したり。
 
ですが、アフリカで女の一人旅は珍しいらしく、
今一緒の宿に泊まっている子達も
危険なこと今までなかった?って聞いてきます。

危険なこと、ナイフで脅されたりとか
そういうのは今までなかったですが、
ちょっと痴漢のようなことはよくあります。

ドバイからバスでオマーンに入国し、
公衆電話を使っていたとき、
真昼間だったのにもかかわらず、
知らない人に股を思いっきりつままれて逃走されたり。

近代的なドバイと
イスラム教の厳格なオマーンは
大きく違っていました。


洋服着ている人がほとんどいず、
女性は、
イスラム教の真っ黒な全身を覆うような服(ブブカ?)
で目だけ出している女性や、
仮面までかぶっている女性も。


男性も真っ白のロングワンピースのような服装でした。

ズボンをはいていると足の形が出るのが
どうやら男性は見慣れていなく、
「ふしだらにうつるんだよ」とあとで
現地の人に教えてもらいました。
 
しっかりそういうことを配慮してこなかった
自分が悪かったなと反省しました。
 
バスに乗っても女性席は前の方で男性とは離れて座り、

乗客はほぼ男性で女性は3人などで。


女性は家族以外に姿を見られるのは恥って
思っている方々もオマーンにはまだいるようでした。

レストランも男性と女性は食べる部屋が
分かれていて、同伴者がだんなさんでも
一緒のところでは食べられません。
 
バスの休憩の時も、オマーンの女性たちと
一緒に分かれて別の場所で食べました。
 
私がオマーンにいたとき、オマーン、
とても暑くて、
女性たちも女性専用の部屋に入ると
「暑いわー」っていって黒い服を脱いでいました。

ドバイにいるときもトイレに入ったときに
思ったのですが、
あの黒いマントみたいな中の服は
とてもおしゃれです。
 
エジプトの女性の下着屋さんが
とてもセクシーだったのも納得してしまいました。

エチオピアでも無理やりほっぺにキスをされたこともあり、
よくわかりませんが、
肌の色にコンプレックスがあるとも聞きました。

突然、腕を舐められたことが何回かありました。

 
ギリシャの下にある
サイプロスという国にいったとき、
宿が同じになったイタリア人の
おもしろい中年の男性と
昼食を一緒にカフェで食べていて、
その男性が、お手洗いに行ったときに、
ささっと見知らぬ男性が寄ってきて、
「今日の夜は空いてるの?
あの人とのビジネスは何時に終わるの?」
と言われ。。


は?と思い、
イタリア人の男性が戻ってきてから聞くと、
「多分、商売している子だと思われたんだよ。 
南サイプロスは、
中国の子や、ベトナムの子が
たくさんそういうお仕事しているからね。」と。
  
確かに、その前の日も一人で道を歩いていたら
スーツきた男性が、
突然、ハウアーユー? ハウマッチ?
って聞いてきたなと。。

次の日も、朝一人で、カフェで
コーヒーを飲んでいると
知らない人が目の前に
紙を置いていってしまって、何だろって思って
見てみると名前と、電話番号、値段、ワンナイトって書いてあって

こういう風にこういう商売は成り立つんだと思いました。

サイプロスは、南サイプロスと北サイプロスに
分かれていて、北サイプロスは勝手にトルコが
独立国として扱っていて、
町の真ん中に塀があり、二つの別の国のようになっています。
 
日本も北サイプロスの存在を認めておらず、
北サイプロスで何かあった場合、日本大使館もないため、

責任はとれません。。のような感じで本にも書かれていました。

南サイプロスは物価がとても高くて、
リゾート地で、リッチな国な雰囲気がありました。

 

1サイプロスポンド
(220円ぐらいだったような。。)

 

北サイプロスも南サイプロスから数時間だけなら
入国することができました。

ですが、バスポートに、北サイプロスの出入国のスタンプもらってしまうと、
ギリシャで入国拒否されてしまうらしく、
別紙にイスラエルの入国の時のようにスタンプを押してもらいました。
 
北サイプロスは、 モスクがたくさんあって
アザーン(モスリムの人の礼拝の呼びかけ)
が流れてて。
雰囲気がらっと変わりました。

国境のところに、私のだんなは
こういう風にして北の人に殺されましたって
写真が引き伸ばして張ってあって悲しくなりました。

でも今では少しずつ関係が修復されていて
北サイプロスの人たちが、南サイプロスの
建設現場で働いたりしているようでした。

なんだかひとつの国になるのは
数年後のような気がします。

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マサイ族のこと。

日本にいた頃から、マサイ族って聞いたこと
ありました。
ただ、サバンナに住んでて、
背が高いアフリカの人で
よくわからないけど
ジャンプしてるってイメージがありました。

ケニアのナイロビの宿で、現地の従業員の子達と
宿にあった小さなテレビを一緒にみてました。
 
そしたらマサイ族らしき人がでてきて、
あって思って、従業員の子達に、
「マサイ族の人って毎日、何しているの?」
ってきいてみたら、
「食べてる。」
「えっじゃなくてほかは?」
ってきくと、
「寝てる。」
「えー当たり前だよ。ほかは?」
「踊ってる。」

あらーって思って、
お友達になったタンザニアの男の子に
きいてみたら、
 
「マサイ族って言われている人たちは、
ケニアとタンザニアに住んでいる部族のひとつで
結婚するには、ライオンと戦って
ライオンの頭をお嫁さんの
お父さんに持っていかないといけないんだよー。
あと、いつももってる槍みたいなの、 
なんに使うか知ってる?」
 
「えー知らない。戦うの?」 
って聞くと、
「毎日使うのは、女の子のおうちにいって
その家の前に突き刺しておいて自分が今いますよって
いう証拠だよ。ほかの男の子がこないように。
タンザニアのマサイの村では、
男の子はどこの女の子の家でも毎晩、
自由にいっていいんだよ。」

「えっ 女の子にとったら
毎晩誰が来るかもわかんなくて
毎晩襲われているようなもんだよー
ひどいよー。
それに女の子みんな一人暮らしじゃなくて
家族と住んでいるでしょーどうするの?」
ってきくと、
 
「そんなの関係ないよ。だってマサイだもん」って。


だからマサイ族の人たちは
HIVの可能性が高いってゆわれているんだって
少し納得してしまいました。

この男の子が、日本語教えて、って
ゆってきて、
ありがとうってなんてゆうの?
っていうから、ありがとうだよー
って教えてあげると、どうやら、
映画で「ありがとうっ」てきいたことが
前にあるらしく、大興奮してました。

日本語の発音の響きが好きなんだっていっていて
み、つ、び、しー 、とーよーたー
ってずっと歌っていて
見た目とギャップがあって
面白いなって思いました。

どうして結婚してないの?って
きかれて、
結婚するチャンスがあるなら、
もっと自分が成長してたいし、
日本じゃ最近あんまり早く
結婚しないかた多いよ。
っていうと、かなりショックを受けていたようでした。

まだまだアフリカ諸国では、
女性の立場はとてもとても低いようです。

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エチオピアのバスのこと。

エチオピアのぼろぼろ、
ぎゅーぎゅー詰めのバスの中。
かなりアフリカ諸国の中でも過酷ってきいてました。
いすは直角だし、日本の快適バスみたいに
クッッションみたいなのじゃなくて、
とっても硬いし、5分走って、30分動かなくなったり。

アディス周辺は、まだ大丈夫なのですが、
首都から離れれば離れるほど、確かに過酷でした。

生きた何羽かの鶏の足をつかんで
乗ってくる人も多く、
鶏がたまに逃げて、私の頭に飛んできたり、
やぎを10匹以上乗せようとして
ドライバーのことけんかになっていたり。
結局やぎたちは、バスの屋根の上にかわいそうに
12時間以上、まとめてくくりつけられていました。

いちど、バスに乗っていたら、
目の前のバスが止まっていて
乗客らしき人たちが、なんにもない
荒地でみんな暑い中、座っていました。

どうしたのかなって思ったら、
乗客のかたと
ドライバーがけんかして、
ドライバーを刺してしまって
だれもバス動かせなくて、
もう4時間も待っているのよー
っていってみんな困っていました。

噂にきいていたとおり、
地方のエチオピアの子達は、
バスの窓を開けたがらず、
その理由に、若い子達は、風にあたると体の具合が
悪くなるっておもっていて、
地方のお年寄りは、外の空気と中の空気が混ざると
悪魔が生まれるって噂どおり
本当に今だに信じているようです。

バスの中は、暑いし、もわもわして、
失礼ですが、
やっぱりシャワーを1週間や2週間に
1度だけのかたも多く体臭があるのと、
あとバスに長距離乗るのは高額なため
みんなあんまり乗りません。
なのでバスの揺れになれていません。
エチオピアの地方の道は本当にでこぼこで
乗っていても自分の体がジャンプしています。

そして嘔吐する人が必ずいます。
いちど、南東部のエチオピアの街からの
帰り、隣の男の子が私の足に嘔吐しました。
人が吐いてしまうことに施設でもう慣れていたので
あらあらっと思って
ティッシュと、あとビニール袋をあげました。

その男の子はしっかりビニール袋に吐いて、
それを窓からぽいって捨てて、
そしたら 吐しゃ物が
窓ガラスにべちゃってついて、
隅の席で外の景色を
楽しんでいたんですが、
それから、景色がパスタと
緑色の野菜?になってしまってショックで、
バスの中、臭いがあったので、窓を開けても
ささって年配の女性たちが閉めてしまって
エチオピアのバスの過酷な理由は、
道がぼっこんぼっこんだからじゃないんだなって
思いました。

でも時々、エチオピアの山岳地帯や
小さな村で乗ってこようとする人達が
となりの村までの乗車賃、
5ブル(70円ぐらい)が
払えなくて、
無理やり荷物放り出されて、
本人たちも引きずりおろされたりしていて
本当にせつないです。

隣の町といっても何十キロもあったりします。

タンザニアもマラウィもたくさん
日本からの中古のワゴンがたくさん走っていて
それが乗り合いのミニバスになっています。
高校のだったり温泉旅館のだったり、
ディサービスのだったり。

「ねーねー
これね、なんて書いてあるのっー」て

興味深々に現地の子にきかれて、

おトイレきれいにしますってかいてあったり
するとちょっと教えるのにためらいますが・・。

車検もないためかぼろぼろの日本語の書いてある
ミニバスたくさんあります。
ちょっとほんわかします。
栗山さやか | | comments(0)

悪霊のこと。

エチオピアの施設で
いつものように
夜、みんなの手当てを終えて、
自分の部屋に戻ろうとしたら
停電していた暗い廊下の椅子に
誰かが座って
すすり泣いているのがわかりました。
 
どうしたのかな・・って思って、
話かけてみました。
 
ブルトカンっていって
10代後半ぐらいの女の子でした。

「どうしたの? どこか痛いのかな?」
 
「痒いの。 痒くてたまんないの。」

っていいました。

ブルトカンは
すごくかわいらしい笑顔を
持っている子で、
いつもニコニコ
微笑んでいるような子でした。

「そっかーちょっと見せてね。」 

って見てみると、
ろうそくの明かりでもわかるほど
ぶよぶよになってしまった、
やけどのあとが
胸から足首にかけてありました。

胸が痒くてたまらないってゆって
がりがりかいていました。

痒み止めのオイントメントを
ぬってあげました。

やけどの跡はかなり時間が
経っているようでした。
 
別の夜、 患者さんに晩御飯を食べさせて
あげていたら、上の階ですごい叫び声がしました。

急いでいってみると、ブルトカンが
すごい声を出して、
泣き叫んで、暴れていました。
 
私はニコニコしているブルトカンの印象が
今まで強く急いで
周りにいた子に何があったかききました。

「ブルトカン、夜になるとときどきこうなるの。」

20人ほどがブルトカンを囲んで
体を抑えて、
鼻の穴ににんにくをいれて、
病室に掛けてあった、
エチオピア正教で
有名な人の絵の額縁で
ブルトカンの顔を
たたきはじめて
水を
思いっきりかけて、
みんなで殴っています。

私はただびっくりして
「何してるのー。だめだよー。
やめてー。やめてー。」

ってブルトカンの体をかばうと
今度はみんな私の体を無理やり引き離して
抑えて、

「チャラカ、いいの。大切なことなの。
ブルトカンの体には、悪霊が今入っているから
たたき出さないといけないの。」

みんなが真剣にいって、でも

「そんなことしたら痛いし、
ブルトカン、
余計暴れちゃうよ。
ただ、あったかいチャイ持ってきて
休ませてあげて。」

「チャラカこれが一番いい方法だから
おとなしくしてて。」

みんなに体を
押さえつけられながら 
すごく困惑しました。

ブルトカンは、昔、
突然自分の家にいたときに
レイプをされて、
その際に、
火がたまたまでたのか、
火をつけられてしまったのか
このひどいやけども負ってしまったようでした。

そのことが原因で、精神状態が不安定で、
混乱してしまうことがあるとのことでした。


こういう現実が
悲しくてたまりませんでした。
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