ペットボトルのこと。

エチオピアの施設をでてから、
自分が飲み終わった後のペットボトル、
捨てるとき少し心が痛みます。

施設では
みんな水道の水を
ペットボトルが支給されて
その中にいれて使っています。
そのペットボトルも
使い古しのもので
10年前から使ってたんじゃないかって
いうぐらいぼろぼろの
カビがたくさんの
ペットボトルをみんな大切に使っています。
 
自分の持ち物は
その支給されたペットボトルと
支給された靴だけの子が
多いです。
 
なるべくあんまりに恐ろしい
ペットボトルの子は変えてあげるように
自分や他のボランティアの子が
飲み終わった空のペットボトルを
集めていました。
 
アディスはどうだったか覚えていませんが、
他の町にいくと
ボロボロのペットボトルなのに
たくさん売られています。
 
みんなそれを買って水を入れたり、
大切に使っています。
 
ビニール袋も一緒です。
みんな、ご飯のときに具合が悪くて、
たべれなかったりすると
ビニール袋にあけて、
とっておいて後で食べています。
 
日本のビニール袋みたく
頑丈でいいやつではなくて
すぐ破けてしまう感じの
ものですが、
みんな何回も何回も洗って大切にしています。
 
破けてもその部分を
自分の髪の毛で上手にしばったりして使っています。
 
電車に乗っていたときも、
電車が壊れたり、途中の小さな駅で止まったりしたときに
電車の外にいるぼろぼろの服をきた
はだしの子供たちが一生懸命
「コッポーコッポー」って叫んでいて
 
「コッポーって何?」って友達にきいてみると、

「空のペットボトル、
みんな欲しがっているんだよ」
って教えてくれました。

 
エチオピアをもう出てしまったけど、
このペットボトルがあれば、あの子
喜ぶだろうなぁ・・。とか思っています。

マラゥイは意外に停電します。
エチオピア並かもしれないです。
 
でも町は思ったよりきれいで、
人も穏やかなかんじです。

 
栗山さやか | | comments(0)

結婚のこと。

電車移動の旅のときに、
一緒に旅をしていたケニア人の男の子と
エチオピアの男の子とは全く違って
引き締まった筋肉の遊んでいそうな
タンザニアの男の子と、
ザンビアの女の子と
話をずっとしていたこと書きます。


タンザニアの男の子は22歳で彼女が今は6人いる
って言っていました。

「日本でそれしたら大問題だよ〜」
って私が言うと、

一夫多妻が当たり前の国にいる彼には
不思議でたまらないようでした。


20歳でまだ子供もいず未婚の子は
村や地方のタンザニアではありえないことらしく、
みんな驚いていました。

女の子はみんな首都にいる子を除いて
結婚は15歳ぐらいが平均のようです。

赤ちゃんの段階で、フィアンセが決まっていたり
13歳で赤ちゃんがいたりするのは珍しくなく、
親同士がほぼ決めることが多いと聞きました。


まれに男の子が女の子を気に入って
女の子に話しかけるまえに
その子のお家にいって両親に承諾を得て
それから、、っていうのが中流家庭の
ノーマルなパターンとも。

遊んでそうなタンザニアの男の子だったけど、
電車が止まるたび物売りの子達がくるのですが、
そのときに、
おばあちゃんに。。って小さな玉葱をいくつか
買っていてなんだかほほえましく思いました。。

彼もHIVに感染するのは、白人だけって

ちょっと前まで思っていたそうです。



タンザニアにいたとき、ピグミー族の人を
みかけました。

小さい時に映画でみたことがあっただけだったので
少し感動しました。

ピグミー族は主に、
コンゴの奥地に住んでいる人たちで、
ブッシュマン(林の中に隠れてすんでいるから)
ともいわれているようです。
長身、1.5M未満っていいますが、
もっともっととっても小さい気がしました。

すごくすごく小さく、でも病気ではなく、
独自の遺伝で、顔はしっかり歳をとっています。
私がみかけたかたは、
5、6歳ぐらいの男の子の背格好だけど
顔だけ50歳ぐらいでした。

コンゴでは別の部族が、食用としていて、
捕まえて食べてしまうこともあるため、
一部のピグミーの人たちは隠れて移動して未だに服では
なく、動物の皮はきて生活していると聞きました。

徐々に変わりつつあるって聞いていたのですが、
コンゴの国連で働くインドの子も
そう言っていて、そこまで
して独自の生活を守り抜くってすごいなぁと
思いました。

ケニアのルオ族のことも聞きました。


夫が亡くなったら自動的に、妻は夫の別の兄弟の
妻になるとのこと。

 

兄弟に別の妻がいても
1夫多妻なので問題はないそうです。


妻がなくなったら、妻の別の姉妹が
夫の妻になって。


でも妻の別の姉妹全員が
もう結婚してしまっていたら、
2夫1妻にはならないそうです。

ロシア人の中年の女性で、
ルオ族の人と結婚した女性は、
「昔夫が亡くなり、どうしても夫の兄弟の妻になるのが
いやで逃亡したのよ」と言っていました。

どちらかが亡くなってしまっても
性交を最後のお別れの意味なのか亡くなった遺体と
するそうです。

アメリカの次期大統領候補って
いわれている一人の人は父親はこのルオ族出身
だとききました。このかたはアメリカ生まれ育ちみたいですが。


ケニアの子は英語、スワヒリ語両方話す人が多く、
それぞれの別の母国語も持っている子が多くて
みんなたくさんの言語しゃべります。


すごいなぁと思います。

栗山さやか | | comments(0)

ソマリアのこと。

エチオピアとソマリアは隣国です。
私がエチオピアに滞在していたときに
エチオピアが
ソマリアに爆弾落としたことを
ききました。

ソマリアの町が次々にイスラム過激派の
人たちに占拠されていってたくさんの戦闘
とても悲惨な状況になっているようでした。


関係が恐ろしく悪化していたのは確かでした。
日本にいるお友達が4日前に
新聞の記事を送ってくれました。
 

= エチオピア東部ソマリ州のアボレ(Abole)地区で
原油探査を行っていた中原油田勘探局の拠点が24日午前2時ごろ、武装集団に襲撃された。25日付で河南商報などが伝えた。

武装集団は約200人で、ロケット砲などを発射したという。中国側のガードマンら約100人が応戦し、約50分にわたり銃 撃戦になった。同紙によると、少なくとも中国人9人が死亡、1人が負傷した他、7人が拉致された。
エチオピア人作業員65人も死亡した。
武装集団について
同紙はソマリ族の反政府グループと伝えた。=


70人以上の方が亡くなってしまったようで
心が痛みます。。。

エチオピアにエチオピアソマリって
いわれる地域があります。
そこの人たちの話す言語もソマリアの言葉です。
エチオピアで危険な場所っていわれています。


東南アフリカの人たちもソマリア出身の人たちに
とても懸念を示します。

電車にのって、タンザニアからザンビアに
移動したときも、電車が止まったり
したときに外の窓の下に男の子たちが
暗闇の中に突然いて、話かけてきます。

食堂車に乗り合わせていたみんなが

「ソマリア人だから気を付けて。早く窓を閉めなさい。」

と、みんなさっきまで楽しく話していたのに
一瞬にして表情を変えていました。

「ソマリアの人は完全に違う危険な考えかた
をもっているから、絶対に近づいてはだめだよ。」と

何度か言われました。

ナイロビが数年前、危険だったのも
隣国のソマリアからたくさんの難民が押しかけて
人を襲いはじめたのも大きなきっかけとききました。
 
もちろんソマリアの人だけではないと思いますが。

ソマリアは内戦状態が続いていると聞きます。


そんな国の女性や子供たち、
病気で苦しんでいる人は・・
って思うと胸が痛みます。

誰が悪いっていうわけではなく、
こんな状態の国でしっかりした教育、
考え方の確立は不可能なのではって思います。

早く平和が訪れて欲しいです。

栗山さやか | | comments(0)

割礼のこと。

体から汚物をとったり、
尿管、肛門に器具を入れたりするとき、
それぞれのトライブ(部族)の
割礼のあとがわかります。

聞き慣れてない言葉だったので最初、
患者さんの各部分をみたとき
なんでこんなふうになっているのか
わかりませんでした。
それも患者さんによって、
全く違うふうで、
でもみんな痛々しいそうで
割礼の意味を知らない私は
なんだか複雑な気分でした。

アルマズという10代後半ぐらいの女の子がいました。
すごくかわいい顔立ちで、
いつも自分の1歳になる子供の話してくれていました。
彼女もHIVポジティブでした。

彼女も割礼の後がありました。
下半身が全く動かない体なので、
尿管にカテーテルを入れていたのですが、
カテーテルは時々、
炎症を防ぐために交換します。
彼女の割礼のあとは尿管の部分にもきていて、
カテーテルを入れるのが
だいぶ時間がかかりましたが、
なんとか挿入できました。
取り外しのときに、
中で、薬品でバルーンを作って
ぬけてしまうのを防ぐのですが、
そのバルーンの薬品を
ぬきっとて外す際、
私の不注意で尿が一緒に飛び出てきたりして、
思いっきり私の顔にかかって、
目の中、口の中にその子の尿が
はいってしまったり、
アルマズは全く悪くないのに、

「ごめんねチャラカ。ごめんね。ごめんね。」
ってずーと謝ってくれている子でした。

粘膜感染、何万分の1だけどあるってききます。

でも、それでもいいと、
この病気で苦しむみんなを知っているだけに
そんなこと軽はずみにゆっては
いけないのだけれど、
それでもいいと思っていました。
そう自然と思えてしまうほど、
あんまりにみんながみんなHIVポジティブなので、
自分が今まで普通にこうして生きていること、
自分の足で立っていられていること、
26年間生きてこれたこと、
家族がいること、これだけで
充分だったんじゃないかって思いました。

一度、エチオピア在中の韓国人の
男の子に会いました。
その男の子は、私に、
「失礼に聞こえたらごめんなさい。
そういう施設で働いて、
ポジティブの方と接して怖くないですか。」
ときかれました。

すごく不思議な感じがしたのを覚えています。

私にとって、ポジティブということよりも、
友達が苦しんでいるから
お手伝いしているだけな気がしました。

彼女の赤ちゃんが、ひきとってくれている近所のかた
と一緒に、一度だけ面会にきました。
いつも笑顔を絶やさないアルマズが大泣きして、
上半身だけが動く体で
一生懸命その子を
しばらく優しく抱きしめていました。

その赤ちゃんは、皮膚の感染症にかかっていて
髪の毛、眉毛もなく、
顔の肌もただれていて。

「早く一緒に暮らしたいよ。
どうして私の体こうなんだろう。」って

赤ちゃんが帰ってしまったあと
「悔しいよ・・。」って

動かない足を叩きながら
泣く彼女が
せつなくてたまりませんでした。

彼女の隣のベットの子、
ラフェルという女の子も
麻痺をしていました。

あるとき、ラフェルのベットに座って、
バナナをむいて食べされて
あげていたときに、
隣にいたアルマズが、

「ムース(バナナ) 落ちているよ。」

って教えてくれて、
それを拾ってアルマズのほうをみたとき、

少しだけアルマズの様子が
おかしいのにきずきました。

「アルマズ 大丈夫?」って声をかけると

「うん。大丈夫。チャラカ、
のどが渇いたから
お水と
あとブルトカン(みかん)が
食べたいの。食べさせてくれる?」

って言いました。

いつも自分でみかんをむいて食べる
アルマズが珍しいなって
少し頭をよぎったけど、
アルマズのベットに今度は座って、
みかんの皮をむいて
食べさせてあげて、

途中で、病室の外で、
誰かが叫んでいるおかしな声が聞こえて、

「ちょっと待っててね。」って
少しだけ外に様子をみにいって
少しして戻ったら、
アルマズの体も顔も大きな目も
もう固まっていました。
 
いつも呼吸でわかるのに、
このとき、アルマズの呼吸、
おかしかったのきずきませんでした。

「アルマズ、アルマズ、、、
まだ、みかん、
全部食べ終わってないよ。食べなきゃ。食べて・・。」

意味がわからない言葉を泣きながらいって、

アルマズアルマズって何回も呼びかけている
声で隣にいた、
ずっと仲良しだったラフェルも
首にも麻痺の症状が出て、
隣の彼女の姿はみることが
うまくできなかったからか、
きずいていたなかったようで、
私の声で異変にきづいたのか、
いつも隣のベットで二人で話しをして
励ましあって
いたお友達が一瞬にして
亡くなってしまったことで
彼女受けたショックはとても大きく、

自分で涙を拭くこともできない
彼女が我を忘れたように
おいおい泣く姿が
悲しくてたまりませんでした。

まだママの死を理解できない
アルマズの赤ちゃんのことを思いました。
亡くなったアルマズの体から
エチオピア正教の子がつけている、
黒いひもと木で
できている十字架のネックレスはずして、
アルマズの赤ちゃんに渡してもらえる
ように管理の人にお願いしました。

一度、若い女の子が亡くなりました。
その子には2歳ぐらいのやっと歩けるぐらいの
男の子の子供がいました。
その男の子は、同じ施設の子供の棟にいて、
1ヶ月に数回ママに会いに
きていました。いつも大きな声を出して
嬉しそうにお母さんと笑っていたのを
私も覚えています。
その若いお母さんもある日、
亡くなってしまって、
でもその男の子はいつもと同じように会いにきて
一生懸命同じ、お母さんのいたベットにきて、
違う患者さんが
眠っているのを不思議そうにみて、
しゃがみこんで、
ベットの下を見てお母さんを探している様子が
とても悲しくて。

こういう風にしてお母さんを
亡くしていってしまう子が
どれだけいるのかなって思うと、
胸が痛みます。

家族が誰もいないという子の悲しそうな
大きな目をみるたび、
ただ 私が家族だよ。なんて冗談まじりに
ゆうことしかできないけど
でもそれでも嬉しそうに私の胸から
ミルクを飲もうとするしぐさが
とってもかわいくて。
本当にずっと一緒にいたいなって
いつも思っていました。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(2)

HIVの血液検査のこと。

メロンというこの施設で
一番ぽっちゃりした17歳ぐらいの
エチオピアの子にしては
珍しく体格のいい子がいました。
いつもたくさん話して
たくさん笑って、
歌って踊っている子で、

私が夜、やっと手当てが終わって
他の患者さんに
ご飯を食べる手伝いや、
体をきれいにしてあげていると
いつも

「チャラカーマッサージ、
マッサージしてよぉ。」って全裸で
ゆってきていました。


「しょうがないなーっ
毎日はだめだからね。」てゆって、

時間の余裕があるときに
マッサージしてあげていました。

損傷もなく、きれいな肌で、
メロンはどうしてこの施設にいるのかな?
って思ってカルテを探したのですが、
HIVの疑いがあるとのこと。

HIVの血液検査をする日が決まって、
メロンが、

「私もしネガティブだったらお家に帰れるのー!」

って大興奮していました。

ちょー元気だし、
よく食べるし大丈夫なんじゃないかな?

って思っていました。

その検査の日がきて、
朝早く、検査をうけにいきました。

その日はちょうどその病室だけで
7人が検査にいきました。

7人のうちの6人、
ポジティブ反応がでてしまって
メロンも残念なことに
ポジティブでした。

メロンは、

「家に帰りたいよ!
なんで私がポジティブなの?
絶対違う。 なんでーなんでー 絶対信じない!」

号泣していました。

他の子たちも、ただただ
自分の体の中でおきてしまったことに
涙をたくさん流していました。

私はなんてゆったらいいかわからず

いつも無責任に「大丈夫だよ。大丈夫。。。」って
を繰り返すばかりで。

メロンが違う病院に移ることが決まりました。

あんなに元気だったメロンが
ずっと元気がなく
心配していたのですが、

病院にいく日、メロンが前の元気を
取り戻していて、
「私まだ若いし大丈夫。
がんばる。 チャラカ、バイバイ。」

って笑顔をみせてくれました。
これからこの子はどんな人生を
過ごしていくのか
不安に思うと同時に、
私にできることは、
ただ心配することだけで。。

これからもどうか
彼女の明るさがなくなっちゃいません
ようにって思っています。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(1)

老人のような女の子。

上の階の病室に、
ブルトカンとういう
20歳の女の子がいました。(エチオピアでも
人気の名前があって、
たくさんおんなじ名前の子がいます。すみません。)

窓のすぐしたのベットでいつ見ても
ぐったりしていました。


体は本当にやせ細って、とても小さく、
頭髪は抜け落ちて、肌はすべて干からびた状態の
ようになっていて、目はうつろで。
つばを自分で飲み込むのも辛そうでした。

あんまりにひどい状態で。

こういう子の場合、
本人もだいたいの自分の
年齢わかっていますが、
かろうじて
話してくれる小さな声のトーンで、
この子がまだ若いんだって
ことが私もわかります。

とても小さなかわいい声で、

「チャラカーお砂糖たっぷりの
あったかいチャイが欲しいの。」

ってがんばって声を出して教えてくれる子でした。

常にひどい下痢と、嘔吐をしていて、
自分で立ち上がる力がなく、
カルテには、
HIVポジティブの可能性があるため、
血液検査を
させるようにと指示がかいてありました。

いつもぐじゃぐじゃに下痢をしていて
布かえて。って自分からは言わず、
私がくるのをずっと待ってくれていました。
私が、
「排泄したあと、すぐ呼んでくれれば
布すぐ変えるからね。 気にせずいつでも
呼んでね。」
っていつも伝えていたのですが、

「チャラカ たくさんお仕事あるもん。
私大丈夫だよ。」

って答えがいつも返ってきて
本当に優しい子で。


私だったらすぐ変えて欲しくて
我慢できずにいると思うのに・・。

ドクターを探して、
ブルトカンがまだ血液検査を
うけにいっていないことを伝えました。

ドクターが、
彼女はもうすごく弱っていて、
みんなで持ち上げて
手伝っても、
もう車いすに乗っているだけの
体力すらないんだよ。
どうしようもないよ。
っといいました。

こういう子を見るたびに、
神様はどうして。。
っていつも思ってしまいます。

この子がふとした拍子に
私のおへそにあいている
109のショップで店員を
していたときに
強制的に開けさせられた
ヘソピアスをみつけて
触るのが好きな子でした。

この子と同じ20歳の頃、
私は何をしていたかなって思いました。

東京の短大って響きにあこがれて入った
卒業さえできればいいやーって感じで
短大にいって、
また響きにあこがれて
渋谷の109の人気のあった
ショップに就職して、
週3回日サロ通いが社訓で、
いかに黒くなるか、
次の髪のエクステはどんなのに
するかとか彼氏のこととか、
遊びにいくこと
ばっかり考えていて
自分の日常のことだけで、

死と向き合ったり、
貧しい国の人たちのこと
真剣に考えることもそこまで
多くなくて。

どうして神様はここまで
違う人生を・・
って思ってしまいます。

この子が何をしたってゆうんだろう・・。

ブルトカンは、
いつも私がグラブなしで
ブルトカンに触ろうとすると
どんなに苦しんで
痛がっていても
「チャラカ、グラブ グラブ 」
って私への感染を
すごく気にかけてくれて。

トルナシもそうでした。

トルナシも
口のまわりの損傷もひどかったため
言葉を出すときに痛みがあったのに、

でもいつも 「チャラカ グラブして。
チャラカに移っちゃう。」 ってゆって。

グラブがなくなってしまって
遠くの病棟にあるときでも
私がグラブ持ってくるのまっていてくれていました。


他の患者さんも自分の損傷部分からでている
臭いを気にして、

「チャラカマスクして、私、臭くてごめんね。。」って。

そんなときいつも、
「臭くないよー。私の頭のが臭いんだよー
こんなに長いくせにしばらく洗ってないもん。」
って冗談ぽくいったりしてました。

ブルトカンは、たくさん痛みに耐えて
がんばっていましたが、数日後、
静かに息をひきとりました。

亡くなった後のことは、
やっぱりわかりませんが、
天国があったとしても、
来世があったとしても
いつもいつも思うことですが、

たくさんたくさん苦しんで、
悲しい思いもたくさんした分、
どうかこの子たちが
たくさん笑顔で幸せでありますようにって
思うばかりです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

マラゥイのこと。


今は、マラウィという大きな湖がある
国にきました。

ナイロビから、タンザニア、ザンビアと
きました。

ケニア人のとても優しい
バックパッカーの子と一緒に
旅をここまでしました。

彼は数週間のみの休暇の旅だったから
昨日、お家があるモンバサ(ケニアの海沿いの都市)に
もどりました。

一緒に旅をしながら
ケニアのこと、
部族のこと、アフリカのこと、
HIVのこと、みんなが考えていること、
色々話をしました。

タンザニアの首都のダルエスサラームから
ザンビアまで2泊3日
電車で移動したときに

ザンビアの看護婦さんの女の子と
タンザニアの男の子とも
一緒になって
年もみんな同じぐらいで
2泊3日
ずっと電車の中で
一緒にいたので
4人でたくさん話をしました。

おんなじアフリカなのにここまで
考えも違って、生活習慣も違って
ショックなことも
たくさんききました。

アフリカ諸国の人たちが
つい、数年前までHIVは、
白人だけがかかる病気だと
思っていたこと。
今でもそう思って気にしてない人が
いること。

でも日本も10年ぐらいまえ
同性愛の人だけだって思っていたことを
思い出しました。

たくさんのうわさもあります。
子供(まだ経験したことがない子)とすれば
自分のHIVがなくなる。
この結果、本当にたくさんの小児レイプが
今でも起こっています。

エチオピアでも、
数年前に小児レイプが多発して
1歳ほどの赤ちゃんまでもがたくさん
被害にあって
そのせいで
ショック死してしまったり。

本当に酷すぎて、ケニア人のシャフも
そんなやつは速攻殺すべき、っていっていました。


今一緒の宿にとまっている、
イスラエル人で南アフリカ育ちの
男の子も、
つい2年前、南アの保健省の大臣や
次期大統領候補の人が、

HIVは行為の後に体をしっかり洗えば
大丈夫、って発表したり
にんにくはHIV消滅に役立つと発言したり
していたそうです。

東南アフリカ諸国で
もっとも発展しているって
いわれている南アフリカでこんな状態で・・
って思ってしまいました。

ザンビアの看護婦さんの女の子も、
ザンビアでは
平均寿命が、
HIVの前は60歳ぐらいだったのに、
今は35歳ぐらいっていわれているよって
いっていました。

ザンビアで首都のルサカと滝のある
リビングスト−ンにしか滞在していなかった
のでしっかりわかりませんでしたが、
やっぱりザンビア都会〜すごい〜
って思っていたから驚きました。

どこの国も、
エチオピアまで貧しくないにしても
村や部族の人たちの生活はあまりに
かけ離れていて驚くばかりです。

東南アフリカ諸国の色々な部族のこと
習慣のこと、掟のこともこれから
たくさんかいていきたいて思います。


エチオピアの患者さんのこと
気にかけてコメントをしてくださったり
メッセージをくれたり
どうもありがとうございます。
こういう風に関心を示してくれるなんて
思ってもいなくてとても嬉しかったです。

本当に恐縮で恐縮です。。。

 
栗山さやか | | comments(0)

ペットボトルのこと。

エチオピアの施設をでてから、
自分が飲み終わった後のペットボトル、
捨てるとき少し心が痛みます。

施設では
みんな水道の水を
ペットボトルが支給されて
その中にいれて使っています。
そのペットボトルも
使い古しのもので
10年前から使ってたんじゃないかって
いうぐらいぼろぼろの
カビがたくさんの
ペットボトルをみんな大切に使っています。

自分の持ち物は
その支給されたペットボトルと
支給された靴だけの子が
多いです。

なるべくあんまりに恐ろしい
ペットボトルの子は変えてあげるように
自分や他のボランティアの子が
飲み終わった空のペットボトルを
集めていました。

アディスはどうだったか覚えていませんが、
他の町にいくと
ボロボロのペットボトルなのに
たくさん売られています。

みんなそれを買って水を入れたり、
大切に使っています。

ビニール袋も一緒です。
みんな、ご飯のときに具合が悪くて、
たべれなかったりすると
ビニール袋にあけて、
とっておいて後で食べています。

日本のビニール袋みたく
頑丈でいいやつではなくて
すぐ破けてしまう感じの
ものですが、
みんな何回も何回も洗って大切にしています。

破けてもその部分を
自分の髪の毛で上手にしばったりして使っています。

電車に乗っていたときも、
電車が壊れたり、途中の小さな駅で止まったりしたときに
電車の外にいるぼろぼろの服をきた
はだしの子供たちが一生懸命
「コッポーコッポー」って叫んでいて

「コッポーって何?」って友達にきいてみると、

「空のペットボトル、
みんな欲しがっているんだよ」
って教えてくれました。


エチオピアをもう出てしまったけど、
このペットボトルがあれば、あの子
喜ぶだろうなぁ・・。とか思っています。

マラゥイは意外に停電します。
エチオピア並かもしれないです。

でも町は思ったよりきれいで、
人も穏やかなかんじです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

ママのこと続きです。


ママはますますまわりを
気にするようになったのと同時に
痛みも増して、
少しずつものがうまく食べれなくなりました。

今まで食べれていた、
みんなと同じ食事をうけつけなくなりました。
何が食べたいともいわなくて、
手当ても1日に何回も何回もしつこくきいて
やっとさせてもらえる感じでした。

「食べたいもの何かある?」
ってきいてゆわれたものを用意するように
していました。
ヨーグルトや、コーヒーや、タッラ(エチオピアのお酒)。

「タッラを飲むと眠れるから。」
っていっていました。

でもあんまりにものを食べないから、
グルコース(点滴)をしようとしても
受け付けてくれません。
痛みがひどいようだったから注射のペインキラー
しようとしても受け付けてくれません。 

「ママー頑張って食べなきゃだめだよ。
私お手伝いするよ。」
なんでもいいから食べて栄養つけないと。」

あんまりにものを食べずにいて
体がどんどん細く細く痩せこけていくのが
1日ごとにわかるようでした。

毎日毎日、何回も何回もしつこく
ほしい物ききました。


「ママ、グルコースしないともうだめだよ。
お願いだから。」

っていうと私の手をとって、
ママのやせこけたお腹をさわらせて、

「こんなにがりがりの私に
どうして針なんて刺せるの?」

「でもママ、お願い、
何か食べなきゃだめだよ。お願いだから。」

「なにがいい? ケーキ? シュロ?
チョコラータ? なんでも買ってくるから
お願いだからいって」

私が泣きながらいうと、
毛布の中から、
「ちゃらか、お願い。殺して。」

って返事が返ってきました。

あんまりに弱って衰弱していくママが
悲しくて悲しくてたまりませんでした。

ママが自分で体を動かせなくなりました。

もう2週間近く、
しっかりしたものを食べていず、
水を1日何回か飲む程度でどんどん
弱っていくのが苦しいぐらいわかりました。

いつもお手洗いには
頑張っていっていたママがお手洗いもいかなくなって、
ベットの下においてある洗面器をとって
毛布の中で用を足すようになりました。

毛布の中に話しかけても返事がありませんでした。

「ママ?大丈夫?」

ってゆっくり毛布をめくると
口元をもう気にせず
そのままの格好で
苦しみきった目をして、
宙をみてました。

ゆっくり私の目をみて
何かゆおうとしているのだけどもう言葉に
になっていませんでした。

汚物のにおいがしたので
お湯を汲んできて、体をきれいにしてあげました。

あんまりに、体ががりがりで
がりがりですべての骨が浮き上がっていて。

肛門でつかえてしまっていた汚物、
自分の手で抜き取ろうとしたのか、手も
汚物だらけで。

きれい好きなママが辛かっただろうなって思って。

丁寧に体ふいてあげて、
爪の中につまった汚物もとって。
ベットもきれいにして。
血と、膿とよだれでいっぱいになった首のまわりも
きれいにして。
きれいな布、マスクを用意して。

ママはもう何もゆおうとしませんでした

ただただ、私が声を立てずに泣くのをみていました。

同室の患者さんたちもみんな心配そうにみていました。

次の日の朝、
ユリガラムが私を待っていてくれて、
泣きながら私にハグしてくれました。

「ママ亡くなったの?」
ってきくと、

「うん。でも今はきっと大丈夫。」
って泣き声でいいました。


いつも、私がママのそばを離れて
別の病室にいこうとすると、
毛布の中から手を一生懸命伸ばして、
私の白衣を引っ張って

「どこにもいかないで。この病室の中にいて。
チャラカの声が聞こえるだけで安心するから。」

まだそこまで具合が悪くなかったころに
よくいってくれた
あったかい言葉が今でも忘れられないです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

末期がんのママ

私の胸の上の部分に、
生まれたころからなのか、小さいころから
なのかやけどのあとのようなものがあります。

日本にいた頃真剣にレザーで消そうか、
刺青彫ろうか考えていました。
 
今思うとただのあざのようなちっぽけな
ことなのに、小さい頃から誰かにいわれた一言で
傷ついたりしていたので
患者さんの何を見ても驚いた顔はしないように
と決めていました。

私はこの施設にきて、
たくさん今までみたことのない
ような症状を持った患者さんをたくさんみました。
 
どんな体の奇形や、
腫瘍、何をみても驚いた顔も
手当ての際も困った顔も
絶対みせないようにしようとなんだか自分なりに
思っていました。
 
手当てしてくれる人が困ったり戸惑っていたら
手当てされているほうはもっと不安になるだろうな
って思いました。

それと、言葉が十分でない分、
表情はとっても大切だとわかっていました。

ワーカーの子が、
「チャラカー新しい患者さんがきたからきて。」
いつもの感じで、
ワーカーの子が上の階から呼びにきました。
その子と一緒に向かう途中、
 
「どんな症状のかたかな?」って尋ねると、
「うんとね、顔みせてくれないの。
外からさっききたばかりだから体洗って
服着替えるの手伝ったときも、
目から下の顔の部分、
布でぐるぐる巻きでみせてくれないの。
でも体何にもなかったよ。
どこに手当ているのかなぁ。」

そっかーと思って、
その女性のベットのところにいると、
毛布を深くかぶったままで横になっていて、
もぞもぞ動いているのがわかったので、
 
「デナニシ?シュミシュマノ?
アイズシシアンチアンママアンレン?」
「こんにちは。お名前何ですか?
痛いとこあるのかな?大丈夫だからね。」
ってきいてみると、答えてくれて、

「ちょっとみせてね。」って毛布を
めくると、やっぱり目だけの顔で、
目の下は布をまいています。
 
その布から血がしたたっているのがわかりました。
「少しだけみせてね。」ってゆって
 布をゆっくりとってみると、
口が、こういう表現が正しいのかわかりませんが、
口が壊れてしまっていました。
  
口が大きく崩れていて、
口からのどの途中までが口になっていて、
あごはないに等しく、
歯はすべて前のほうにでてきていて、
かろうじてぶらさがっているだけの状態で。
肉の塊が口の中にたくさん膨れ上がってできています。
たくさん血と膿がでてしまっていました。
唾も自分では飲み込むことが出来ず、
よだれもたくさん垂れていました。

「大丈夫。大丈夫。今からきれいにしてお薬つけるからね。」

口にでてきてしまっているかたは少なかったですが、
ひと目で末期がんの症状だってわかりました。

2年前からこの症状が少しずつ少しずつ、
進んでいったと教えてくれました。
人目をずっとさけて今まで生活してこられたのかな。
辛かっただろうなって思いました。
私はもう、このときにはドクターがみてくれないのは、わか っていました。
 
でも少しでもいいから、
ドクターにみてもらえるように、お願いしにいきました。
ドクターに少しでも診察してもらうことで
患者さんたちも
少し安心がもらえるって思っていました。
 
ドクターは、チラッとみて、
「ひどいな。」とだけいいました。
「消毒とペインキラーをあげるように。」とだけいって
行ってしまいました。

私は少しでも消毒液をつけた
ガーゼで口の中を触ると痛がる彼女に
どうすればいいのかしばらく考えて、
細い器具をつかって、
毎食後、食べかすが残らないように
きれいにしてあげて
針をとった注射器に
消毒液、薬品を注入して、
部分部分にあたらないようにするようにしました。

口からのどにかけて以外は、
動かせる体を持っていたのですが、
人目に触れることを極端に嫌がって、
1日中ずっと毛布をかぶって
トイレのときだけ、布を顔にまいたまま、
用を足しにいっていました。

何かいい案はないかなって考えて、
私たちが使っているマスクにガーゼを
プラスターで何枚かくっつけて。
そしたらすごく気にいってくれたようでした。

ごはんのときも、
一生懸命口の奥の方に運ぼうとするのですが、
食べれる量は4分の1ぐらいで残りは
口の外へこぼれ落ちてしまっていました。
飲み物もそうだったので、
ストローを探して使ってみてもらったのですが、
吸引することができずだめでした。
 
でも食べ物、飲み物を飲むとき、
下に洗面器をおいて、
ベットが汚れないようにして
きれい好きなママでした。

途中から一番すみのベットにかえてもらったので
大丈夫だったのですが、それまで
私が薬をつけている間も、
大きな布を二人でかぶり、
その中で懐中電灯をつかって
手当てしてました。
 
何度か、患者さんやワーカーの子に顔をみられて、
みんなが 「ひぃっ」って叫んでしまったり、
驚いてしまって
持っているものを落としてしまったり。
 
あんまりにみんなの表情がかわるのが、
ママにとって、
とてもつらいことだったと思います。


一度ママが私に何かはなしかけていて、
でも私には理解ができなくて、
現地の子でメディカルトレーナーの子に
通訳をお願いしようと思って
違う棟から呼んできました。
でも、彼はすぐ行ってしまいました。

「待って。」っていってもいってしまいました。

どうしたのかな?って思って
他の英語の少しわかるワーカーの子にお願いして
そのときは大丈夫だったのですが、
それからまたそのトレーナーの子にあったときに
彼が、
 
「あの日ごめんね。すっごく怖かった。
 あの場にいられなかった。」っていいました。

これから医療に携わっていく彼に
色んな感情が混ざってなんて
いったらいいかわからなくて

「正直に話してくれてありがとう。」
とだけいいました。

一人だけ患者さんの中でも
ママを気にしてくれる女の子がいました。
ママの話す言葉は、
口が十分に動かせないため、
まだまだぜんぜん十分ではない私の
アマリックの聞き取り能力では、
理解できないことが多く、
そんな時いつも助けてくれるユリガラムという
18歳ぐらいの女の子でした。

ユリガラムは、食事をママに持ってきてあげたり、
新しい布を渡してあげたり、話かけてあげたり。

ユリガラムはママの布の下の顔をみたことが
ありませんでした。

あるとき、布をはずした状態のママをユリガラムが
初めてみてしまいました。

ユリガラムは表情を変えずに、ただ部屋を
出ていって、それから暗い廊下で
「ママ、かわいそう。。」ってゆって
涙を流していました。

彼女もママの状態がひどいというのを知って
いて、みんなのリアクションもみていて、
でも彼女は 必死に自分の表情を変えずに
いてくれたのがわかりました。
栗山さやか | 病気などのこと | comments(0)
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