亡くなってしまった後。

患者さんが亡くなると、 生前にきいていた連絡先、
(連絡先がある子は少ないですが。。)
にワーカーの子が訃報を伝えます。


悲しいことに、数日前に教えてもらった確かな番号なのに
電話をかけてもその患者さんをしらない。というかたも
多いようです。

ある時、一人の女性が亡くなってしまって、
その子のかわいらしい赤ちゃんは、同じ施設の
子供の病棟にいました。

この女性の場合も、ワーカーの子が番号にかけても
そんな女性はしりませんってゆって切られてしまったとのこと。

私がワーカーの子に、「番号間違えたか、番号変わっちゃって
いるんじゃないのかな?」
ときいてみると、
「そんなことないんだよ。きいたばかりだし。
一番近くの村みんなで使っている番号だし、
名前確認したよ・・。」

「たまにこうなの。みんな遺体引き取るお金もないし、
亡くなった患者さんの残された子供の
面倒みきれないから、知らないって嘘ついちゃうの。」って。

あーっておもいました。

返す言葉がでてきませんでした。

施設の敷地内に、ぼつんとある、亡くなったかた
を収容する棟があります。

亡くなってしまった人は、白い布でくるまれて
ここの棟に運ばれます。
あんまりにみんな痩せこけているのであんまりに
その布が細くて、軽くて、ぼろぼろのタンカーに
乗せて運ぶ時、心が痛みます。

亡くなってしまった人の中に家族がいて
ご遺体をひきとりにくることが
本当にまれですが、時々あります。

ご家族のかたは、遠く離れた土地から何日かバスを乗り継いで
きたり、引き取るために車を借りる費用がかかるため、
自分達は
何日もかけて歩いてくるかたもいます。

そのかたが、ここに到着するまでに、亡くなってしまった人の
身体の腐敗を防ぐため、
注射を、心臓と胃の部分2箇所にします。

苦しんだ顔のままのかたもいてとてもせつないです。
このかた達はどんな人生を
どんな風に歩んできたんだろうって
いつも思います。

ずっと手当てをしていて毎日一緒に過ごした子に
打つ、その子が亡くなったあとの注射は、生きていた頃に
その子と話したり笑ったりしながら
打っていた注射と全然違って、
とても苦しいです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

ベットの上だけの生活。

毎日、女性の病棟だけで、何人か亡くなっていきます。

7ヶ月間の中で、たくさんの人を看取ってきました。

最初に看取ったのは、骨と皮だけの20kgあるかないかの
女性です。 見た目は老人のようですが、たぶん本当の年齢は
30歳ぐらいだったんじゃないかなって思います。

その女性は、一階の50人ぐらいの病室にベットがありました。
HIVポジティブだったのですが、筋肉の合併症にもかかり
身体が、くの字のまま麻痺というか硬直して固まっていました。

排泄もそのままの格好なのですが、
カテーテル(排尿のための器具)を尿管に差し込むのも
何度もトライしたのですが、
股間を開くのができなくて挿入できず、
ダイパーもないため、
なるべく排尿、排泄したら敷いてある布を
変えてあげるように
現地のワーカーのこと協力していました。

同じ格好のままで自分で寝返りもうてないので、
ベットソァーズ(床ずれ)がひどく、ベットに当たっている部分、皮膚がぐちゅぐちゅで、
向きを変えても両方の皮膚が同じ状態なので、
布をいくつかまるめてその部分が
ベットに擦れないようにしてあげていました。

初めてこの女性をみたとき、汚物の悪臭がひどく、
両肩から両脇腹にかけて、
床ずれでぐちゅぐちゅになっている皮膚も誰にもきずかれ
なかったのかそのままになっていて、その皮膚の
ところに排尿と汚物もきていて、どのぐらいこの状態で
過ごしていたんだろう。。。って、つらかっただろうなって
思いました。

手当てや汚物をきれいにする以外にも、
身体や顔をきれいにしてあげたり、
爪の垢をとったり、しらみをさがしてあげたり、
話しかけたり。

でも、その女性(ヤシン)は、
いつも一言も言葉をはっしませんでした。
水がほしいとも布をかえてほしいともなんにも。

痩せこけた顔に大きな目で、瞬きをほとんどせず、
表情がなく、
いつもじっと私の動きをみていました。

返事がいつもないヤシンに勝手に話しかえて、
いつものようにおしりから汚物をとってあげて
布を新しいのにかえて、
「デナデル ヤシン」(おやすみ。ヤシン)
ってベットを離れようとしたら、ヤシンが私の手をとって
私の手にゆっくりキスしてくれました。。

嬉しくてたまりませんでした。お返しにほっぺに
キスしまくりでした。


ある時、ヤシンがいつもと変わらないように、
毛布の隙間から、 私をじっと見ているのがわかりました。
「ヤシンーデナニシー?テナントマタタイニタシャ?」
(調子はどうかな? 昨日の夜はよく眠れたかな?)
って話しかけて毛布を少しずらして顔をみてみると
口から泡がたくさんでてきていました。

急いで、ドクターを呼びにいき、戻ったところで、
黒目が左右に動きはじめていました。

小さなかすれた叫び声に似た言葉をはっして、
ゆっくり深い息をして、目を大きく見開いたまま
そのまま亡くなってしまいました。

今まで、みんなのカルテをみても、なんて書いてあるか
理解する英語力、医療力がなくて、それぞれの患者さんの
病名、手当ての仕方は、
忙しいドクターからささっときいていました。

亡くなったあと、ヤシンのカルテをみて、そこに
かかれている英文を、紙にかきうつして、自分の部屋に
戻ってから英語の辞書を開いて調べてみました。

人と関わりたがらず、攻撃的。治療中危険を伴う。
って記入されていて、
攻撃的だなんてこと一回も
思ったことなかったし、ヤシンが手にキスしてくれたり
いつもじっとわたしのこと見ててくれていたのを
思い出して、もっとたくさんヤシンにしてあげれたんじゃ
ないかって思いました。

何をするにも自分ではできなくて、
ベットの上がすべてで。
えらそうなことは何もいえませんが、
ただただ、天国で身体を自由に動かして
大好きな人達と心地良い空間にいてくれたらって
思うばかりです。




栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

でてきちゃった赤ちゃん。

この施設で働いていると緊急事態によく出くわします。
その時は、現地のドクターもナースもいない夜間が多いです。
患者さん同士が、喧嘩して、
どうしたらそんな風に大きな傷口が出来るのか
わからないぐらい何かを使って、
切られて腸がみえてしまって血が吹き出している子。

最初は止血のしかた、こういう緊急時の対処、かなり
焦りました。

私が寝泊まりしていたところは、患者さんの病棟と同じ棟で
夜みんなの苦しむ声や泣き声が聞こえてきて、すごくせつないです。
夜間は、男性患者が女性患者を襲いにいかないように、施設内には
大型の危険な犬達が放されます。
だから、私達も部屋から出ることはできなくなるのですが。

この部屋の上は精神障がいの子供たちの病室の下にあって
しかも天井が水漏れ。。
その水漏れの原因は上の階の子ども達のトイレから。
何個所もあって、汚物まじりの水漏れだから
かなり匂いが・・でした。
バケツおいて、他のボランティアの子とは
天然の滝だねぇ・・。なんて笑ってました・・。

いつものように夜ごはんを患者さんたちと話しながら
食べていたら、他の病室の患者さんが、チャラカーきて!
って呼びにきました。
なんだろうって思って、停電してたから、ろうそくをもって
その子と一緒に違う病室にはいって、その子の連れていって
くれたベットの子のところへ。

その女の子は、がりがりにやせこけた
10代半ばの子で、妊娠していました。
毛布をめくると血にまみれた、やっと人の形をした赤ちゃん。
まだ4ヶ月〜7ヶ月ぐらい?しかお腹の中にいなくて、
泣く事も出来ない赤ちゃん。
レイプで出来ちゃった赤ちゃんだけど、その女の子は
自分の初めての妊娠、赤ちゃんを
とっても楽しみにしていたのに。

呆然としていた女の子にかけてあげる言葉なくて
ほっぺにキスしてハグして。チャラカ・・。
ってだけその子はいって。


その女の子も数日後亡くなってしまいました。
望まない妊娠もHIV感染も自分のパートナー、

や売春だけではなく、レイプの
被害もとても高いです。

レイプされて妊娠して、HIV感染してしまって。

本当にやりきれません。。。

栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

ナイロビのこと。

気分を変えて今いるケニアのことです。

ナイロビ滞在4日目です。
エチオピアと比べると格段の違いです。
電気は止まらないし、水道ひねれば水でるし。
トイレは残酷じゃないし、洗面器でもないし、しっかりした
トイレだし。

エチオピアで違う病院にむかうため、道歩いてもチャイナ! ファレンジ!ユーユー!マネー!って呼ばれまくりでした。
いつから自分の名前が上のようになったのかな?って思うぐらい。

ユーユーをハローとかんじがいしている人も多いらしいけど・・・。
もうチャイナチャイナっていわれて疲れるなーってぼそっと
イングランド出身の女の子に愚痴をこぼして
いたら、私もたまにチャイナ!ってゆわれるよーってその子が・・。
青い目、ブロンドなのに・・。

ナイロビのバス。 (マタツゥではないカラフルなやつ。)
乗ったら、がんがんRB,レゲエ、ラップ、ウーハー付き
前にTVあってプロモ流れてる。(しかもけっこー最新!)
音楽ガンガン過ぎてクラブにいるときみたいに隣の人
なにゆってるか聞き取れない・・。
バスの天井にはセクシーな写真。
夜になるとバスの中の電気がブラックライト。
しかも、青や緑以外にも、ピンク、赤
クラブというかなんか怪しげで、
でもなんか好きかも。

でもこれだから犯罪大都市につながるんじゃ・・。
でもケニアの人明るい感じでだいぶ親切な雰囲気。
しかも礼儀も正しいような感じ。

夜7時過ぎるとほとんどの店は鉄の扉をしめお店閉めています。
ネットやさんも朝6時から!夜7時で終わりです。

ナイロビの宿で久々の日本人の人達、バックパッカーの子達に
あって、日本っていいなって思っています。

栗山さやか | | comments(0)

体を売るということ

エチオピアでは売春をする場所になっているブンナベット
と呼ばれている売春宿がたくさんあります。
そこで働く女の子達。 早い子は10歳ぐらいからと聞きました。
生きて行くために体を売って、相場はどこで働くかにも
よるけど、だいたい安くて2ブルから30ブルぐらい。

2ブルじゃこっちでも、主食のインジェラも食べれません。
バスには4回乗れますが。


2ブル。 日本円で27円ぐらいです。

売春してHIVになってしまってここに運ばれてくる子達。
ほとんどの子は 首都のアディス出身じゃなくて、
エチオピアの首都から遠く離れた山岳地帯や村の子達。
出稼ぎのためにアディスに出て来て
学校にしっかりいけなかった子がほとんどだから
読み書きができないのもあって思うように
仕事がみつからなくて、
売春宿で働くようになって、、と聞きました。

家族がいたとしても電話や住所をもたないから、
自分がバス何日か乗り継いで帰らない限り
連絡のとりようもない。

帰りたくてもバス代はそう簡単に稼げるお金ではないから。
帰れたとしても、仕事がなくて。。

ここに運ばれてきて、
数時間で息を引き取ってしまう子もいます。


「死にたくないよ。恐いよ チャラカ。助けて」と言って、
そのまま亡くなっていってしまう子もいる。
「アイズシシっ(大丈夫だよ。
安心してね。みたいな意味)」と、何回も
何回も言って、体をきれいにして、顔に手をあてたり
しばらくそばにいて手を握ってあげて。
私の自己満足かもしれないですが、それでも・・って思って。

私はここにきて、体調を崩して具合が悪くてたまらない日もありましたが、
手当て休むことはできないから夜とお昼休憩のとき少し横になれる程度だったけど、それでもその瞬間
苦しくて、でも私の場合は数日の痛みで終わって、
でも患者さんの場合はこの何千倍の苦しみが、
毎日続いて、いつまで苦しみは続くのか見えなくて。

少し私の様子がおかしいってきずいた患者さんに
[チャラカ?どうしたの?大丈夫??]
てハグしてもらえるだけで嬉しくてあったかい気持ちに
なれて。
だから250人以上いた女性の病棟だったけど なるべく
みんなの肌に毎日ふれてあげるようにしていました。


先進国にいたらHIVウィルスに感染しても薬を毎日投与すれば、
発症を遅らせること、
HIVではない人のように60歳や70歳まで生きれる
可能性もとても高いとのこと。
エチオピアでは、みんな栄養不足でもあるし
そんな高価な薬を手にいれることは難しいのが現状でした。


「ここの施設に運ばれてくるだけまだ運がよいほうだよ。
みんなたくさん苦しんで、そのまま山の中で死んじゃうもん。」
ってぼそって現地のワーカーの子がいった言葉が
悲しかったです。
 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(0)

思うこと

毎日朝から夜まで休みなく働いた施設。


ここに来るまで、ここでボランティアをするのが目標と思っていましたが、

実際、働いてみたら
恐くて、自信がなくてすぐ施設を出てしまうのではないかと、自分に自信が全くありませんでした。

でもこの経験で、自分の弱さ、ずるさ、汚さとも向き合えました。
向き合えただけではだめなのですが、自分の将来の夢、やっと見つかりました。

とても時間もかかるし相当努力しないといけないのですが、
できない。は言いたくないので、チャレンジしてみようと思います。
夢が叶うのは何年後になるかわかりませんが・・。

27年、生きていることがどれほど奇跡で健康であることがどれほどありがたいか
私よりまだ若いみんながどんどん亡くなっていってしまう中で、
生きていくことについて考えさせられました。
夢を持てるだけどれほど幸せなことか。


生きていくことの難しさ、生きていることのありがたさ。
改めて教えられました。

物質的に豊かでも自殺者やうつ、心の病のかたが多い日本だったり先進国。
貧しくても笑顔のある毎日の国。
貧しいことは不幸ではないと思いますが、私が不幸だと思うのは、
貧しいが上に、飢えに苦しんだり、病気になったり、死を待つしかすべがなく、
生きていく上で、
選択権を持てない人々。

誰かの言葉で、幸せというのは、朝自分で服を着れること。
と聞いたのを思い出しました。

 

何が幸せかは一人一人が決めることですが、
暖かいベットと食べるもの、飲むものがあって、話を聞いてくれる人がいて。
最低限の幸せなのかもしれないけどとっても大切ですよね。

なんだかよくわからない文章ですみません・・。

今は エチオピアのアディスアベバから、バスを国境まで乗り継ぎました。


ケニアとの国境の街で、過酷なんじゃ。。といわれていたタンクローリーの荷台に

一緒にエチオピアでボランティアしていたオーストラリアの男の子と二人で29時間かけてきました。

 

かなりの埃まみれで荷台は、現地の人達で
あふれかえっていて、ぎゅうぎゅうの荷物になった気分でしたが、
思ったより大丈夫でした。

逆に景色も夕日も朝日も星空も見れて。


いつもいい景色を見れたときは、亡くなってしまった日本の親友、
エチオピアで亡くなっていってしまった患者さんたちを想います。

ケニアのナイロビは危険だっていわれているけどなんとなく
エチオピアからくると久々の都会で、少し嬉しいです。
なんでもそろっているし、エチオピアとはまったく街の雰囲気も
人々の雰囲気もがらっと変わります。

ずっとエチオピアで自分のだらけた時間(といってもネットゆっくりしたり、ぼーとしたり)
がもてなかったので、ナイロビでのんびりしようと思います。

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(0)

施設のこと

ここの施設は病棟が女性の棟、
男性の棟、子ども達の棟
外部からの人の治療する場所(とっていっても50人程が週に3日押しかけるため外での青空病院) があって、
私は主に 女性の病棟で働いていました。
ついた2日目までは、USからの看護婦さんの女性二人がいたのですが
その子達は南部の施設にしばらく行くことになっていて、
3日目から全くどうしていいかわからないのに
一人で手当てをしなければいけない状況に、
かなり焦りました。
お医者さんも1000人以上いる患者さんの中に1人。
毎週土曜日に外科の先生一人。

現地の看護婦さんもプラクティスの子だけ。
英語でガーゼも包帯も
薬品の名前も、器具の名前もなんてゆうのか
さっぱりだし、一人一人のベットに
ぶら下がっているカルテも英語だけどすっごい筆記体で
英語で病名なんてわかんないし、日本語でも病名きいても
あんまりピンとこないのに。

でもやらなければならない状況で、ずっとここにくるのが
密かな夢だったから、ここにくるまで、
時々なんで自分は旅を
しているのかすごくわからなくて、色んな国に住む友達に
あったりして、みんなしっかり働いたり、
夢に向かって勉強していて、
日本にいる友達も将来を見据えて
頑張っているのに私はただふらふら観光していて・・ってお金
使って・・って
思う時もかなりありました。
楽しんだ分、なんだか自己嫌悪のようなものがあったりして・・。


でもここにきて、苦しんで苦しんで一生を終えて行く子達、
私だったらどうして欲しいんだろう。 って思いました。
最期は一人じゃなくてきっと誰かに看取って欲しい気がしまし
た。 病気の苦しみから完全に救ってあげることはできなくても
孤独からは救ってあげたいって思いました。

家族や友達がいる子はほんの少しです。
自分の誕生日、年齢 ほとんどみんな知りません。
見た目30歳ぐらいの新しい患者さんにカルテ作成のために
年齢をきいたら11歳って答えが・・。
何回聞いても、11歳って。
でも、見た目8歳ぐらいと4歳ぐらいの子供が二人・・。

ドクターも困って、20歳ってことにしてカルテに記入。
カルテに書かれている年齢はほとんどの場合、
私の独断なんだ・・ってドクターが教えてくれました。

アディスにいただけでは、本当のエチオピアの貧しさは
わからないと思うよ。っていわれて、この時は、まだよく
この意味がわからなかったです。

時々水や電気が止まるけど、水は最長3日。
患者さんインジェラ(主食)を手掴みで食べるから水がないと
衛生状態の悪化が進んでたいへんです。
アディスはそこまで暑くないから、シャワー三日なし。
なんとか平気です。
エチオピアの子はもともとお風呂は週に1、2日ぐらいです。
おうちにお風呂やトイレがある子は現地の子ではあったことが
ありません。

最初の3ヶ月半はひたすらアディスの施設で
ほぼ外にご飯も食べに行かず、
観光なんてまったくせず、
休日もなく働いていました。たくさんの患者さんとの出逢い、
別れを経験しました。

栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

エチオピア生活7ヶ月のこと

エチオピア、 旅の中の一つの大きな目標だった国。

HIVの施設で働くのが目標でやってきて、
最初は3週間の滞在の予定が、
VISA延長2回もして昨日まで滞在していました。


アディスにある施設、

1000人以上もHIVや奇病、末期ガン、アフリカ独特の病気で苦しんでいる人がいる施設で、

一緒に寝止まりして毎日朝から晩まで働いていました。

初めて病室にいったとき、

体の奇形、喪失、腐りかけた肌、悪臭、 その子の頭より大きな腫瘍、 血と膿と骨の見えてうじ虫、はえがたかった肌、 汚物だらけの体、一日中吐いてしまっている子、たくさんの遺体、苦しんでもがいている子、直視出来ないほどのぐちゅぐちゅの腫瘍、
あまりの衝撃に自分の中で整理ができませんでした。

ここにくるまで医療なんてまったく知らなくて 献血は好きでしたが、

血は全くみなれていませんでした。


それでも週に1回 アディスにある大きな病院でお医者さんからの
手当ての指示を受けて、注射したり、
点滴したり、尿管や肛門に器具を入れたり、皮膚にメスをいれたり、 腫瘍をメスで切ったり、指の切断をしたり 亡くなった人の体の腐敗を防ぐために遺体に注射したり・・。

日本人が最初は全くいない環境、患者さんとは現地のアムハラ語 もしくはオロモ語でのやりとり、医師や他のボランティアの人たちとは英語。
医療英語一言も知らない状態に焦りました。

ほぼ毎朝、朝5時に起きて、アムハラ語、オロモ語、医療英語の勉強しました。
患者さんとのこと、現地のワーカーの子達のこと、
他国のボランティアの子達のこと。エチオピアのこと。
たくさん書いて行こうと思います。
意味不明な文章もあると思いますが、 読んでくださったら嬉しいです。
 

栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

イギリスからエチオピアまでのこと

 

しばらくMixi書けてなくて久々の日記です。
イギリスへ滞在していたときのまま止まってしまっていました。

イギリスで昔日本に住んでいた友達に会いにいってから
バスでスコットランドの友達に会いにいきました。


その後、またイギリス戻り、オランダのアムステルダムに住んでる
友達に会いに行き、
ベルギーに住んでる友達の家にしばらく滞在させてもらいました。


イタリアに飛行機で飛んで、ミラノを見て、

すぐドバイに。

ドバイで、1ヶ月ほど友達の家で過ごして、 本当に暑くて
日中50度、 夜中でも45度。

 

でもどこもかしこも
冷房がしっかりきいていて、室内と外の温度の差30度に体がまいってしまったのか、
しばらく寝込みました。

 

とても暑かったけど 1ヶ月も居たから楽しかったです。

新しい建物ばかりで、色んな人種、宗教が混ざりあっていて。

それからドバイからオマーン、イエメンとバスで移動しました。


イエメンの首都サナアから数時間のフライトでエチオピアについたのが去年の9月です。

エチオピアには、3週間のみ滞在の予定でしたが、
昨日までエチオピアにいました。


すごく長くなってしまいますが、 エチオピアでの暮らしのことを

書いていきたいと思います。

文章が読みづらく、修正加筆等もすると思いますが、

今いるケニアのナイロビに安いネット屋さんがあるので

少しずつ書いていこうと思います。

 

栗山さやか | | comments(0)
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