ビザとボランティアのこと


  日本のパスポートを持っていると、
 ビザなしでも入国できる国がたくさんあって
 とても恵まれているなぁと思います。

 国と国の国交がなかったり、関係が悪かったりすると
 出身の国によって入国ができない国があったり、
 ビザ代が異様に高かったり。

 インドにいたときにバングラデッシュの観光ビザをもらいに
 インドにあるバングラデッシュ大使館に行ったときも、
 簡単な面接がありましたが、ビザ代、日本人なら無料でした。

 確かアメリカ人の子達は
「バングラデッシュの
 ビザ代100ドルだー。。。」と悲しんでいました。

 アメリカ人の子達は、
 確かいくつかのアラブ圏の国、
 イエメンとかシリア?(だったかなと思いますが)
 は観光ビザ取得は難しく
 「簡単には入国できないんだよー」って
 言っていました。

 イスラエル出身の子達なんて、
 ほとんどのアラブの国はもちろん入国できないです。
(あんなにモダンで都会なドバイがあるUAEですらだめみたいです。)

 イスラエルも他の
 アラブの国の人たちの入国を認めてないし、
 以前も書きましたが出身国関係なしに、自分のパスポートに
 他のアラブやイスラム教の国の入国スタンプがある場合、
 イスラエルへの入国拒否されたり
 別室に連れてかれて質問攻めや
 全ての荷物の細かいチェックがあったりしていました。
(持っているノートまで一ページずつ目を通されて質問されたそうです。)

 逆にイスラエルの入国スタンプがあると
 たくさんのアラブの国では入国拒否されます。

 アフリカの国でも、
 南アフリカとかマラウィ(今現在は必要)は
 日本人ならビザなしで入国できました。
 出身の国によってはかなりの額のビザ代を払わないといけないです。

「日本人なんかはいいね。
 ビザなしでOKの国がたくさんあって、、」って色んな国の旅人に
 貧乏バックパッカーしてた頃よく言われました。

エチオピアの施設でボランティアしていたとき、
観光ビザでエチオピアに入ってボランティアしていました。

エチオピアの観光ビザは最大で3ヶ月もらえて、
本当は数週間の滞在の予定でしたが、施設に住み始めて3ヶ月経っても、
まだここでボランティアを続けたいと思って、移民局にビザの延長の手続きに行きました。

私は、ボランティアとしてこの国にいても、
きっとあっさり延長認められるものだと思って
気楽に行ったら面接があり。。

「はっ ボランティア?」と却下されそうになりました。。。
なんとか頼みこんで
そして1ヶ月だけの延長を許可してくれました。

私はびっくりして、エチオピアに何回かボランティアで来ていた
ヨーロッパ出身の女性に聞いてみました。

そしたら、

「移民局でボランティアがしたいから、
ビザの延長をお願いしたいなんて言っちゃだめだよ。
国は観光できてお金をじゃんじゃん使って、
国にお金を落としてくれる外国人が欲しいんだよ。
ボランティアして、
全くお金を使わずにいる人たちには、逆にうざったいのよ。」っと。

そういうものなんだと勉強になりました。

今いるモザンビークでも、

「ボランティアとかいってるけど、
実はがっぽりお金もらってんでしょ。」

「貧しい人のためとか言ってるけど、
自分もすごい額のお手当てもらっているんでしょー。
俺にも分けてよーー。」と。

こういう偉い地位にいる男の人たちと、
その人たちの事務所とかで2人っきりになるのが少し怖いです。

土地の問題で土地のリーダーと揉めてしまっていた時に、
国の法律をしっかりしっている相談できる人が必要で
やっとあの人だったらって思える人にお願いしに行きました。

モザンビークではポルトガルの影響を受けてか挨拶のときに、尊敬の意味も込めて
両方のほっぺにキスするのですが、(貧しい層の人々はする習慣はないそうですが。。)
そのときに、このかたに口にもキスされたり。。。。

先週もまた別の書類関係の手続きで、
緊張しながら、他の担当者のかたのところへ言ったとき、
たまたま友達の旦那さんが担当の人で良かったって
心の中で喜んでいたら、
この旦那さんと事務所で二人っきりになったときに、
「今日の夜、君の家に遊びに行っていい?」とおしり触られ。

 

権力の人にそういう扱いを受けた場合、

結局は泣き寝入りするしかない自分のふがいなさを感じます。

色んな揉め事がいつもありますが、
このの法律で、

「組織や協会で働く外国人や、協会自体、
土地のリーダーや、土地の責任者が、
やつらは悪いやつだって政府に訴えれば
外国人であるあなたを簡単に24時間以内に国外追放できる」
っていう法律があるから
言動などには本当気をつけたほうがいいよ」とよく言われます。

そういうこともあって
いつもいろんなことに慎重にならないといけないし
時々とても怖くなります。

やっぱりどこの国でも外国人として、
そこの国に住ませてもらうには
とても厳しい目が向けられているんだなぁと思います。。

 ビザ代も一気に値上がりして私が払ったとき、
 1年間有効のの在留ビザ代、7万円2千円でした。。
 はぁ。。と思います。。

今日は日曜日で日曜日は停電していることが多いのですが、
今日はしてなくてとても嬉しいです。

写真。
 前住んでいた家の玄関とルーサ、家の中の台所と猫たち。
 しっかり育ってます。
 電気のスイッチがないところは、線をひっかけて使います。

 電気がない村に住んでたときは、
 電気がないならないなりに生活できましたが、
 やっぱり電気はすごいなぁありがたいなぁといつも思います。






 

栗山さやか | ボランティア | comments(3)

アナとイスフさんのいた組織のこと。

   

   村に家族とか知り合いがいる場合とかは別に平気ですが、
 協会のみんなで突然 村や集落を訪れる場合、まず最初に、村のリーダーに
 挨拶と村内を歩く許可をもらいに行きます。

 許可をもらわないとリーダーが指示を出して村の若者たちに
 不審者と見なされてぼこぼこにされることもあるみたいです。

 どこかの協会が、集落にいって、そこに住む人たちに追い掛け回されて
 石で襲撃されたことテレビでもやっていました。

 このときのリーダーも、協会なんてどこもマフィアだって。。

 いつも貧しい人たちを助けたいってきて、
 いざプロジェクトのお金としての寄付金が入ったら
 そのままいなくなっちゃうよって。

 この町にいたイタリア人の女性も有名な組織で働いていて、
 この町の病院へ大量の薬の援助のためにしばらく滞在していました。

 そしたら同僚の現地の男の人に、
 「この薬を全部売ってお金に変えて来なきゃ
  お前殺してやるっ」って言われて、
 精神的にまいってしまって、イタリアに戻っていったって聞きました。。


 この町に1年弱いた、アメリカ人の友達、アナも同じようなことがあって。

 アナはアメリカ育ちですが、ポルトガル人のご両親で
 モザンビークで公用語になってるポルトガル語、ぺらぺらです。

 アナはアメリカの政府のボランティア(平和部隊)で派遣されて、
 この町に1年弱住んでいました。

 初めてアナにあったのは、
 現地の友達に 「私を紹介して欲しいって
 いう子がいるんだけど、」って 言われて、
 
 あぁ、またいきなり知らない現地の子達から
 お金とか物のお願いごとされるのかなって思っていました。

 そしたら、アナで、町で私が歩いてるのみかけて、
 私を知ってるっていった子に お願いしたのって。

 すぐ仲良くなって、しばらくその子のうちで一緒に生活したり、
 私が別の州で生活しはじめると、アフリカでの移動は、
 バスとか乗り合いワゴンは絶対危険だから乗りたくないって言ってたのに、
 慣れない長時間バスで12時間以上かけて会いにきてくれたり。
 彼女とは、たくさんたくさん色んな話しました。

 ですが、去年、体調も精神的にも参ってしまって
 予定を早めてアメリカに帰りました。
 
 今でもアメリカからよく、
 「大丈夫さやか?体壊してない? 
  心は大丈夫?」って国際電話してきてくれて。



 アナの働いていた現地の組織も、アメリカ政府からの高額の寄付金、
 そんな村いってないし、何にも買ってないのに、
 子供たちにユニフォーム買いましたって
 うその領収書を作ったりして、
 同僚の現地の人たちがお金使いまくってました。

 お店の人友達だったりして、余裕でうその領収書作れるし、
 領収書なんてないお店やさんも多いし。

 アナが抗議すると、アナにいろんなことを隠すようにますますなって、
 会議にも呼んでもらえず、経理関係も一切みせてもらえず、最後には
 ほぼ無視みたくなって、アナ仕事行けなくなってしまっていました。。

 アナも首都にあるヘッドオフィスに散々連絡していましたが、
 そこまでお金が不正に使われていること気にしていないようでした。。

 それでも数ヶ月経ってからようやく、
 アナのプロジェクトの責任者はアメリカにある大学の教授だったようで
 なぜか、ポルトガル語ができるからなのか、
 その教授の生徒さんが2日間だけ視察派遣されてきました。

 うちらと同じ歳ぐらいのカナダの子で、
 南米にしばらく留学していて、アフリカは初めてきたよって
 言っていました。

 私はアナからその協会のお金の使い込みのひどさを
 いつも聞いてあげることしかできませんでしたが、
 アナと私は、彼女がわざわざ偵察にきてくれたから、
 きっと何か解決策がでるんだって思っていました。
 彼女が来るのすごく楽しみにしていました。

 彼女も含めて、その組織のメンバーで会議をしたときに、
 イスフさん(今一緒に私が働いている50歳の現地のかた)が、
 使い込みをしている人たちをその会議の場で名指ししました。

 その日の夜、アナのお家で、
 そのカナダの子と3人で晩御飯一緒に作って食べたときに、
 協会の不正の話になりました。

 アナとイスフさん 、私もきっとこれで何か良くなるって思っていて
 でも彼女が言った言葉は、

 「教授にこのこと、伝えるかどうかはわからない」って。
 
 アナと一瞬2人で、固まりました。。

 アナが彼女が帰っていたあと、
 「きっと、教授のプロジェクトがこんなことになってるなんて
 報告できないんだと思う。
 いい結果を持って帰らないといけないプレッシャーが
 彼女にもあるんじゃないかな。。」って。


 世の中、こういうものなんだって思いました。


 アナがきっと、向こうも向こうで、
 お金の寄付先を探さなきゃいけないプレッシャーがあって、
 とりあえず、よさげなところに、お金渡して、
 あとは適当に証拠として写真を数枚送ってもらって、このプロジェクト成功。
 みたくなっているんじゃないかなって。


 この州には、アメリカ政府のボランティア
 (平和部隊、 日本の青年海外協力隊と同じような感じ)で
 派遣されてきた子達が3人いたのですが、 
  (残りの2人は高校で英語教えてた。)
  
 この2人の家に2回も泥棒が入って家中のもの盗まれてしまって、
 アメリカ平和部隊はこの州からは、安全性に問題があるってことで
 今は撤退してしまいました。

 彼たちも、国の税金使って、貧しい国の援助できたけど、
 学校で英語教えることが
 援助になったのかよくわからないっていってたみたいです。。

 最近アナが、働いていたお金盗みまくってた協会、閉鎖されたそうです。
 良かった良かったと思いました。
 でも結局すごい額のお金使い込んでいたこのひとたち、
 逮捕されたわけでもなくて
 お金盗み逃げみたいな感じになって、
 きっとまた別の名前の協会を立ち上げて
 色んな国の大使館や、組織に提案書を送ってまたはじめそうです。。

 首都に住んでる大使館や大きな組織の人たちに、
 この協会がどうだとかいう情報は入りづらいし、
 申請する提案書に、昔アメリカ大使館の依頼を受けてプロジェクトを
 成功させましたって書いたりすればかなり通りやすくなると思うし。。


 キリスト教関係のところ、
 特に先進国から来た子達がしっかり管理しているところは
 大丈夫だと思いますが、
 それでも、ここはほとんど、現地の人たちが主になって
 管理しているところばかりです。
 そういうところは悲しいですが、かなりひどいと思います。
 
 貧しい人たちのためや、国の発展に役立っている協会や組織も
 もちろんありますが、 
 これはきっとアフリカ中で問題になっていることだと思います。
栗山さやか | ボランティア | comments(3)

小屋が完成したこと。


   
   ここの町に住んでいる人たちは、
 とても裕福な、政府の上の人たち、
 お店を経営している上流階級の首都出身のかたや、
 インド、ポルトガルのかたたち、中級階級のかたたち、
 あとは、ほとんどは貧困層と言われているかたたちです。

 一番貧しい人たち、
 収入を得る仕事も、耕す畑もなく、食べ物もなく、
 旦那さんもいず、家族はどんどん亡くなっていって、
 毎日毎日お腹をすかせて、
 たくさんいる子供たちと途方にくれてる女性たち、
 
 お父さん、お母さんがもうすでに亡くなってしまったり、どこかへ行ってしまって
 残された子供たちと住むお年寄りのかたたち。

 1日1ドル以下で暮らすひとたちが世界の貧しい人たちだって聞いていたけど、
 この町では、町の中心部に住む大きなおうちに住むかなり裕福なかたたちと、
 あとは、かなりのかたたちが、1ドル以下で暮らしているような気がします。

 貧しい中でもさらに貧しい生活の女性たちは
 1日50セント以下、20セント以下だと思います。

 砂漠化はここではそこまで進んでいないので
 雨期の時期はそこらへんにはっぱが生えています。
 それはすごく助かっていますが、
 毎日食べれるはっぱを探して、
 主食のしまの粉は、お金がなくて買えなくて、
 他のみんながモヤージ(製粉するところ)で
 素のとうもろこしのかすを拾ってきて主食にしたり。
 
 油もないからお湯で茹でただけのはっぱはとても苦いし、
 お豆さえも買えなくて毎日毎日ひたすらはっぱばっかりで・・。

 寒い朝晩、あったかいお砂糖湯飲んで暖まりたくても
 お砂糖を買うお金が必要だし。
 食器や服、自分の体を洗うせっけんを買う余裕もなく、
 病院に行きたくてもお金がないし。

 今は協会の準備のために、たくさんの貧しいお宅訪ねさせてもらっています。

 みんな色んな事情を抱えていて、
 ここまで困窮した暮らしをしている彼女たち、子供たちをみるたびに
 自分が彼女だったら何を考えて、毎日生きていくんだろうと思います。


  勉強小屋完成しました。
  思ったよりきれいな建物になって嬉しいです。
  ここに住む、貧困層といわれているかたの中でも
  さらにさらに貧しいところにいるかたたちのためにと思っています。
  今日は今からオリエンテーションです。

 写真。上にわらがまだのってませんが、今はもう完成しました。






栗山さやか | ボランティア | comments(5)

協会のこと。

この町に貧困を無くすための協会いくつかあります。
 どこも資金不足で、
 でも資金が援助されたらお金は
 あっという間になくてしまって、
 それも協会のメンバーのお給料が恐ろしく高かったり、
 いいオフィスを持ちたがったり、
 お金が別の目的で使われたり・・。

 海外の会社で働くようなものだから
 給料高いの当たり前だよって
 現地の友人の一人でイギリスの組織で働く友達言っていました。

 スペイン人の女の子2人が、
 インターンシップで、この協会で4ヶ月研修していました。

 いつも早くスペインに帰りたがっていました。

 「アフリカの協会での仕事、すごく興味があって、
  貧しい人たちを助けるために
  頑張ろうと思ってきたのに、実際はぜんぜん違った。
  いつもいつもお金の要求だけで、はっきりいって仕事してないし この4ヶ月
  なんだったんだろう」って。

  海外から資金を援助されて、計画書とかはばっちり書いてあるのに、
  いざお金が送られてきたら、何のプロジェクトもせず、
  そのままお金とともにその協会は消えて、
  また別の名前の協会を立ち上げて、また別のところからお金をもらって。
  ってそういう風にしている人たちもいるって聞きます。
  
  私がボランティアしていた協会、色んなことがあって揉めて、
 かなり落ち込んで、悩んだ結果、 私と現地の子達3人で、
 新しい協会を立ち上げることにしました。

 でも政府へ提出する書類や、手続きすごく時間がかかりそうです。。
 うまくいくといいです。


写真。  おばあさんと、子供たちで住む家庭。
      こういうかたたちをサポートできたらと思います。

      1日のご飯が写真にうつってる小さい硬いとうもろこしの粒だけの日も
      多いようです。 2人の子供と親戚のおばさん3人暮らしの家庭。
栗山さやか | ボランティア | comments(8)

今現在しているボランティア協会

 
 今ボランティアしている協会は、
 現地で新しくできたばかりの団体です。

 

 最初の3ヶ月は、
 私ともう一人の現地の男の子だけしか集まらず
 色々意見言い合いながら提案書書いていました。

 それを大きな力のある組織(ユニセフとか、FHI, Oxfam, CAFOD とか)に送ることを繰り返しています。

 首都から大きな組織の現地の人が来て、時間作ってもらって
 提案書の話をしたりしても、
 あとで夜、その人のホテルの部屋に一人で来るように
 連絡が入ったり・・。 危険だからもちろん行きませんが。
 なかなか難しいです。。。

 他の一緒にボランティアしている現地の子達は、
 食料確保の為に、自分の家族の畑を耕しに遠くの村で暮らす時期もあり、
 やっぱり現地の子達にお金一切なしのボランティアは厳しいのかなと思いました。

 
 みんなの家にだって電気はないし、子供をひとりで育てている女の子もいました。



 それでも徐々にみんなしっかり集まってくれるようになって、
 土曜日は近くの小学校に入り込んで教室使わせてもらって、
 平日の集まりは外の木の下で集まって、みんな学校が終わった後に集まるので
 夕方寒い時間、みんなで震えながら外で意見出し合ってます。

 私は今までエチオピアから南下して下がってきて、ずうずうしくいろんな組織や
 協会見させてもらったり少しだけお手伝いしたりしてきました。

 お金持ちの外国から寄付されて当然みたくなってる雰囲気、
 寄付でいただいたお金の使い込み、嘘の報告書で済ませて援助金を受け取っている団体。


 
 援助機関での人たちの1ヶ月のお給料が
 現地の人の平均年収の何倍も支払われているところ。
  (お医者さんの何倍のお給料だったり、州知事さんより高い場合も。)
 いろんな悪い流れにもうずっと長い間なっている団体。


 私が色々言える立場じゃないですが、
 うーんどうなんだろうなって思うことがよくありました。

 

 いい組織だなぁって思うところももちろんありましたが、
 悪い例もたくさん見てきました。

 もうここで働くの限界って言って、
 自分の国へ帰っていった先進国の子達も見てきました。

 今働いている協会、
 他の現地の友達にそんな若い子たちだけのところでどうなの?
 話し合ってばっかで何が出来るのって聞かれます。
 
 でも私には新鮮で、自由にみんなの意見が言えて、
 お金もまったくないので誰も使い込んだりしないし、
 みんなみんなボランティアなので、本当に興味がある子だけが集まってくれるし。
 今はみんなで色々調べたり勉強するときなんじゃないかなって思っています。

 週末は朝7時半に集合して、ポルトガル人の裕福なかたが経営している
 農場にいって農業のいいやり方を教えてもらって、
 あと、片道8キロある村の生活を調べに言って来ました。

 ブッシュの中をひたすらみんなでその村に向かって歩いて、
 村のかたのおうちにいろんな質問をして回って、生活の状態をみさせてもらって。

 砂埃で寒くて雨も降っていましたが、みんなで町に帰る長い帰り道、
 今日はよく歩いて、色々わかったねっていって話しながら帰って嬉しかったです。

 貧しいひとたちの生活、やっぱり目につくのは、
 年老いたおばあちゃんと、小さな孫たちだけの家庭。
 あとお母さんとたくさんの子供たちだけの家庭。

 みんな畑を耕して生活していますが、ひとりでたくさんの子供たちの
 食べ物、服、病院へのお金、学校でのノート代と鉛筆代、
 無理があります。

 この日も雨が降っていてとっても寒くて、
 はだしのみんなの足が寒そうで寒そうで。
 みんなみんなぶるぶる震えいていて。

 本当寒いからきっとみんなあったかい紅茶でも
 飲んで暖まりたいのに、
 (こっちで言う紅茶はお湯とお砂糖のみです。紅茶の粉とか紅茶パック売ってますが
 買う余裕がないおうち多いです。)
 お砂糖すらもみんな買えなくて。。飲めないです。。

 今日のみんなのごはんって見せてくれたお料理してるさつまいものおなべ。

 お母さんと5人の子供の写真です。
 さつまいも売って生活しています。一山4円です。
 4円で買えるもの、小さいバナナ1本か、飴玉二つとかです。。

 どうすることが一番ダイレクトに本当に貧しくて困っている人たちの
 手助けできるか、手助けするだけじゃなくてその人たちの毎日にちょっとでも
 何か気持ち的に張り合いがでるようなこと。。と思っています。

 

栗山さやか | ボランティア | comments(2)

コンピューターを遂に買ってしまったこと。


私のコンピューターの調子がずっと悪く、
この町にある電気屋さんに修理に出しました。


前は少し使えたのに電源も入らなくなって返されて
あとで現地の友達に聞いたら、
「電気屋、直すふりしてコンピュータ一の中の部品
盗んだりするからたぶんそれだね・・。」と。。


修理代請求されなかったことはよかったですが。。



今住んでる町は、2年以上前はじめてモザンビークに入国した時にも滞在したことがある町です。

この2年の間に
きれいな銀行、お店もできて、走っている車の数も増えた気がします。


まだ信号とかそういうのはなくて砂埃ばかりですが、
植民地時代に作られたアスファルトの道もまだ残っているのもありますが、

徐々に発展している気がします。


スーパーマーケットも2軒あり、
日本いたときよく食べてた、
プリングルスが売っていて嬉しく思いました。

 

奮発して購入してしまおうかと思いましたが、
値段見たら1100円・・。

 

中国の小さいインスタントラーメンもあって、
あぁ、食べたいなぁって値段みたら300円・・。

いつか本当に落ち込んで
どうしようもなくなったとき購入したいです。。

コンピュータ一などを販売している電気屋もあります。
電子レンジも売られていて、とてもおどろきました。
使ってる家庭はみたことありませんが。

こういったお店は、インド人、ポルトガル人(あるいはその子孫)の
裕福な家族が経営しています。


コンピューター、デスクトップの大きなタイプですら、
15万円以上して、ラップトップは20万円ぐらいから。


きっと、合計6時間ほどかけて、乗り合いワゴン乗り継いで着く
マラウィの都市に行けばもっと安く手に入ると思います。

思い切って、清水の舞台から飛び降りるつもりで、
中古のコンピュータ一をジンバブエのかたから買いました。


すぐ壊れてしまわなければいいです。

 ここは南半球なので今は冬の季節で寒いです。 
 太陽がほとんど日中も出ず、雨も少し降ります。
 気温は低くて5度ぐらいですが、
 暖房器具とかないし、
 家、隙間風ばかりなのでとても寒く感じます。。
 

 ねずみも寒いからか家の中にたくさん入ってきます。。家の中にいても手かじかみますが、
 料理した残り火で毎晩暖まれてます。
 
 暖まるための火を起こすにも、炭や薪が必要です。
 近くのブッシュの木とか木の枝は、
 土地の持ち主のかたがいるので、
 みんなマーケットでお金を出して買うか、
 遠くのブッシュまで探しに行って
 頭に乗せて運んでこないといけないです。

 明かりも、一本30円もする白いろうそくは、
 貧しい家庭のみんなには高くて手が出ないので
 夜はみんな明かりなしの生活が多いと思います。


 何か物など探したいときは、
 数本のわらに火をつけて
 わらが燃え尽きちゃう前に急いで探すそうです。

 私の家には、毛布も、上着も靴下もあるし、
 火をつける炭も薪もあります。


 こんなに寒い夜に、大雨期ときに
 崩れてしまったまんまの家に住んでる貧しい近所の人たちは
 どうやってこの寒さしのいでいるんだろうって思います。
 

 外にいる子達はどんな気持ちで毎晩外で眠っているんだろう。。

 今ボランティアしている協会、
 提案書を大きな組織にたくさん提出していますが、
 なかなかいい結果が得られず。。。

 

 住所も電話番号もないできたばっかで
 木の下の外が私たちの事務所で。。


 地元の人からは、あの人たち木の下で
 いつもかたまって座っていて怪しいと思われてそうですが。。



 頑張りたいです。
 
 今いる町のみんなの住む地帯の写真です。

栗山さやか | ボランティア | comments(3)

ズンナシとママのこと。


施設で会った子たちのこと、
 もう亡くなっていってしまった子たちのこと、
 毎日思い出します。
 楽しく過ごした毎日のことも思い出しますが、
 やっぱり、後悔していること、申し訳なくてたまらないこと、
 たくさん思い出します。

ズンナシという17歳だっていう女の子が上の階にいて
 下半身全体が麻痺をしていました。
 いつもたくさん汗をかいていて
 背中からお尻にかけてできてしまった、
 ひどいぐちゅぐちゅの血だらけの床ずれと
 股間の部分に腫瘍ができていました。
 
 あと、肺に痛みがあり、床ずれの手当てをするときに
 体を、横向けに動かしてするのですが、
 そのとき、肺の痛みが強いようで、
 いつも治療しているあいだ、

 「チャラカ、まだ?まだ終わらない? 
 痛いよ。痛いよー 苦しいよー。」
 っていっていて、

 「ごめんね。ごめんね。あともう少し、もう少しだから。」
 
 っていっていつも急いで腐った皮膚をメスで切り取って
薬品つけたり、汚物を取り除いていました。


 「今日も、一緒にご飯食べよう。
 ちゃらか 一緒に食べないんだったら、
 私、ごはん何にも食べないから。」って私が来るの
 よく待っていてくれました。

 ズンナシの股間から、真っ黒な塊のような血が
 たくさんでてきてしまっていて
 でも、このとき私では、どういう処置をしたら
 いいのかわからなくて、
 ドクターを探しにいこうとすると、
 ズンナシ 痛いよーって叫びながら、
 お願い、チャラカドクターは呼ばないでっていいました。
 
 私は、うん。うん。っていいながらも
 ドクターを探して来てもらいました。

 ドクターが現地のナースのプラクティスの子達と一緒にきたので
 これで安心だと思って、少し様子が気になりましたが、
 他の病室の子たちの手当てに行きました。

 午後になってズンナシの様子を見に行くと、
 ドクターは腫瘍の大部分を切り取っていて
 ズンナシは涙を流しながら、ぐったりしていました。

 ズンナシは、私を見て、

 どうして、ドクター呼んだの?
 どうしてそばにいてくれなかったの?
 って泣きながらいいました。
 
 ずんなし、お願いドクター呼ばないで。呼ばないで。
 って私に何回もいいました。

 私はわかったわかったなんていいながら、
 その子の話を聞こうともせずに待ってっていう言葉を聞き流して
 ドクターを急いで呼んできました。
 
 一瞬でも何で話きいてあげなかったんだろう。
 見たこともない男の子のナースの子達で
 心細かったし、少し怖かったのもあったのかも
 しれなかったのに。

 いつもよく話してくれるズンナシだったけど
 このときはもう話してくれませんでした。

 次の日の朝、また様子を見に行ってみると眠ってしまっていて
 また後でこようと思って、別の階でしばらく手当てをしていると
 他の患者さんがズンナシがチャラカのこと呼んでいるよって
 教えにきてくれました。

 この子の手当てが終わったらいこう、って
 何回も思いながら何人かの患者さん
 手当てしていたらいくのが遅くなってしまって、
 慌てていくと、たくさんの血を吐いて
 きれいな目開いたまま、もう固まってしまっていました。

 私がこの施設にきて少し経ったとき、
 一人の30代後半ぐらいの患者さんがいて
いつも、うーうー苦しんでいてとても辛そうでした。

 このママは、自分の名前もどこに住んでいたかも
 覚えてなかったのか話たくなかったのか、
[ママ、お名前はなんですか?]ってきいても
[しらない。わからないよ。どうして?]
って答えていました。

あるとき、ママのすぐとなりのベットにいる
女の子のところに、専門のドクターがきてくれて、
その女の子の手当ての指示をきいていました。

忙しいドクターの早口の言葉、聞き取るのに必死で
 メモしていて、でも
ママが私の白衣のはじ、ひっぱっていて、
ママ、ちょっと待っててね。ってその手、白衣からとって、
またドクターのゆっていることメモしはじめると、
また白衣、ママひっぱるから、ママーごめんね。
あとちょっと。。。 ってまた白衣から無理やりママの手とって、
何回かそうしていました。
ママがそうやって私の白衣、ひっぱるの珍しいことじゃなくて、
もう少し待っててねーっていつもの感じで思っていて
ドクターの指示がやっと終わって
ママのほう振り返ってみると
私の白衣をつかもうとしたまんまの手、だらんとベットから外にだして息ひきとっていました。

亡くなる寸前のときに、
最後の力だして伸ばした手を何回も
振り払われたママはどう思っただろう。

私、ママの顔みようともしなかった。

ズンナシも亡くなる寸前に一生懸命声を出して
私を呼ぶように伝えてくれたのに。


いろいろメッセージや、涙がでるぐらい嬉しくなるコメント
いただいて恐縮で恐縮で
でも私のとってしまった行動で
患者さんたちに悲しい思いをさせてしまったこと数え切れないです。
 

今はまた施設でのボランティアをはなれていますが、
しばらくしたらまたどこかの場所いってみようと思っています。

栗山さやか | ボランティア | comments(4)

胸が痛くなること。

日本でてから、もう50カ国ぐらい旅してきました。

アフリカ大陸を旅して、エジプトも含めると、
今は8カ国目になります。
エチオピアの物乞いの
路上生活の人達の数は、
今まで行った国の中でも、群を抜いていると思います。

首都などの都市、どの国でも悲しいことですが、
物乞いのかたいると思います。

でも、エチオピアでは、
地方の町にも小さな町にも
本当にたくさんの物乞いの子達、人達がいました。

地方の施設に何箇所かいったとき、
施設によって支給するものはばらばらですが、

南部の施設にいたときに、
週に1回、インジェラ(主食)を作る粉と
インジェラを作るオイルを無料で配っていました。
前日の夜から、施設の門の外に、
支給を待つ人達がみんなで眠って
朝が来るのを待っていました。

朝5時前に、人達の声で目が覚めて、
まだ暗い外にでてみると、
数百人の人達が、冷え込む朝にもう待っていました。

朝8時に粉とオイルの支給がはじまります。
500人以上のかたたちが嬉しそうに待っていました。
最初にみんなでお祈りを捧げて
それから現地のワーカーの子と
粉まみれ、オイルまみれになりながら、
支給のお手伝いしていました。

北部の施設にいたとき、
夜明け前のまだ薄暗くしーんって静まり返った町に
でたとき、
町の一番大きな道路の両脇に、
薄暗い中で、
たくさんの人達が横になっているのがわかりました。
ずらーと何百メートルも本当にたくさんのかたたちが
みんなでびっしり眠っていました。

ここの地域の施設では、
毎日、コップ1杯のミルクと、
ビスケット一人6枚支給していました。
支給のお手伝いをしながら、
みんなが美味しそうに飲んで
食べる顔がとても嬉しかったです。

北東部の施設では、
お米と、オイルを毎週月曜日に支給していました。
みんなが大切そうにもってくる、
お米を入れる袋、
本当にぼろぼろで
小さなバケツ一杯分のお米いれてあげて、
そしたら袋がぼろぼろ過ぎて
全部こぼれてしまったり、
よたよたした小さなおばあちゃんに
どうやったらこんな重たいお米とオイル運べるのか
いつもはらはらしていました。
でもそういう時は決まって、
若い男の子や女の子たちが助けてくれていました。

この地域は、日中、本当に暑くて、
それでもみんな暑い中、お米とオイルもらうために
何時間もかけて頑張って歩いてきます。

1000人以上の方々が毎週来るので、
待ち時間も、暑い日差しの中、長く、
それでもお米、
袋にいれてあげたときの本当に嬉しそうな顔を
みて、私も嬉しくなっていました。

エチオピアには小雨期、大雨期あります。
この施設に一緒にいった、スイスの女の子と、
夜眠るとき、
二人で色々いつも話していました。
 
小雨期に入りかけた時期は、
太陽がある日中は暑くても、
夜はかなり冷え込みます。
夜、眠る前、大雨が降っていて、
部屋の中にいてもお互いの声が
良く聞こえないほどの大雨で、サンドラが

「さやかー想像できる?
こんな寒い大雨の夜の中、
みんなどうやって路上で眠るの?」

二人で、
もしもこの子たちがうちらの国に
生まれていたら。ってよく話していました。

ただ、安全で安心できる場所が、必要だと思いました。

レイプや暴力、肉食のハイエナやハゲタカから
身を守れる場所
日本みたいに屋根のある建物がないから
みんな雨が降ったらずぶぬれで、
体もとても冷えてしまうし、
病気や雨や寒さをしのぐ場所、
安心してぐっすり眠れる場所。
1日2食でもいいから食事の確保、
時々はおなかいっぱい食べれるだけの食料。
細菌ばかりの泥水のようなお水ではなく、
しっかりきれいな飲み水。
雨の降らない乾期は川のお水もなくなってしまうから
何ヶ月も体を洗えない状態で衛生状態の悪化、
それを防ぐこと。
最低でも病気の痛みを和らげるお薬。

学校とか仕事とかの前に、
人として生活していくうえでの
ほんとうに最低限の
安全であること、
薬が手にはいること、
飢えないことが
難しい生活。


エチオピアは今だに100年以上前から断続的に
戦争し続けているっていわれています。
隣国のエリトリアやソマリアなんかと
今も緊張状態にあります。

そのため、国は防衛のためのお金、
戦争のためのお金
国も経済も政府も戦争によって混乱して、
国民のみんな、特に貧しい生活の人たちは、
もっと混乱した中で、
他国からの援助支援なんかも
本当に援助を必要としている人には
ほとんどいってなくって、
きっと戦争のための武器や
装備に使われていたり
賄賂だったりに使われているんだと思います。

5歳になるまえに亡くなって
いってしまう子供たち。
5人に1人、4人に1人の割合とも
いわれています。

下痢になっただけで、生まれたとき、
生まれる前から極度の栄養不足の状態の
小さな体は、
とても弱く、脱水症状になって
しまったりして
亡くなっていってしまいます。

どうしてうまくいかないんだろう。
みんなたくさんは望んでないのに。
ただ普通の暮らししたいだけなのに。
いつもいつも思って、
他のボランティアの子たちと
たくさん話しをしていました。

こんな苦しい状態のみんな目の前でみて、
たくさん話して、
みんながどれだけ苦しんでいるかわかっているのに、
それでも、旅、もう止めて、
私の今持っている日本で貯めたお金全部使って
そのこたちに尽くすことしてない自分がいて、
私はいったい何なんだろうって。
一番ひどいことのような気がして。

今でも考えて思ってわからなくなって。
これでほんとうにいいのか、

苦しむ国のひとたちを、
みてしまうこと。知ってしまうことが
こういうことだったんだって。

自分の弱くてずるい気持ちが
はっきりわかって。
今でもずっと考えています。
ぐちゃぐちゃな文章でごめんなさい。
| ボランティア | comments(13)

親からのメール。

エチオピアの施設で、
現地のワーカーの子に
日本の家族のことを聞かれて話をしながら
薬品の整理していたら
管理の初老の女性が、そばでそれをきいていて、

「あなた、ご家族いるの?
私あなた一人で生きていたから
こうして働くんだと思ったわ。 
あなたは、いつも笑顔でいるか、
誰かが亡くなって泣いているかどちらかね。
あなたの国の人はみんなそうなの?」

「あなたしばらくここにいるけど
ご家族心配してないの
日本はとても遠いでしょう。」
 
これは、旅をしていてもよくされている質問です。
私、もともと日本で8年も離れて家族と住んでいたけど
やっぱり日本国内で離れて住んでいるのと海外とじゃ
心配して当たり前かなって思いました。

今回、南アのジョハネスブルクで
待ち合わせしていて
パソコン持って来てくれたアメリカの
70歳になるお友達、スティーブンは、
エチオピアに私がいたときも
わざわざフライト変更して会いにきてくれました。
  
彼はザンビアでプロジェクトがあって
私がエチオピアにいることをいって
ザンビアに行く前にアメリカからエチオピアに
2日間だけだったけどよってくれました。

旅をしていて、自分が違う国の友達のとこいったり、
仲良くなった旅人と別の場所で
待ち合わせしたりとかはあっても、
友達が私を訪ねてわざわざきてくれるのは
はじめてだったからすごく嬉しくて、
彼をアディスの空港まで迎えにいって、
(嬉しすぎて油断して警戒度が下ってしまったのか、デジタルカメラを盗まれてしまいましたが。。)
彼に私がボランティアしている施設を
案内してまわっていたとき、
その途中彼はずっと叫んでいました。

「長いこと僕は生きていて色々みてきたつもりだけど
こんなに感動したこともう随分なかったよ。」

「君のご家族はこのこと知っているの?
患者さんがどんなに苦しんでいても
とびきりの笑顔で君にハグとキスをすること。
君が汚物だらけの子を丁寧にきれいにしてあげてること
手足がなかったり、ぶらさがっているだけの子達が、
あごと肩をつかって地面をはって、
君に抱き上げてほしくてやってくること。
君は写真かビデオをぜひ撮っておくるべきだよ。」

その言葉で、数ヶ月前、
お母さんからきた手紙を思い出しました。
心配している文章と、あと、
 
「日本で普通に育ってきたことで
優越感にひたっているのはないですか?
そんな風に想っていたら
エチオピアの子達に嫌われますよ。」
     
忙しく毎日働く中、
少し悲しかったのと、そうなのかなって思いました。
あんまり忙しくて、どういう気持ちで自分がいま
ここにいるのかとか考える余裕なくて、
毎日忙しくて、ネットやさんにいく時間もあんまりなくて、
もともと電話代の値段気にして
ほとんど日本に電話もしてなかったし、
自分の両親が心配しているのは当然かなって思いました。
海外にいったことも、飛行機に乗ったこともない
お母さんだったし。

ボランティアについても
色々な意見があると思います。
 
でも私は、自己満足でも、
実は、ほんの少ししか役に立っていなくても、 
私がされる側の立場だったら、
全然知らない人からでも、ほんの少しでも
気にかけてもらえて、
おはよう。今日は調子どうですか?って笑顔で
声を掛けてもらえるだけでも、
それだけでも、やっぱり嬉しいんじゃないかなってこと、
たった一言話しかけられるだけで、
ほっとしたり、あったかくなったりする気持ち
あるんじゃないかなってこと、エチオピアの施設で
過ごして思いました。

つい最近も、父親から、

「アフリカにいつまでいるの。
女一人でアフリカは、危険がいっぱいに見える。
なるべく早くアフリカ大陸を離れて欲しい。」
ってメールがきました。

短大を卒業して、
109のショップに就職して
まだ準社員だったし、
長時間労働で立ちっぱなしの職場で。
上下関係も厳しく。。


お給料も少なく、(時給で計算すると800円以下だったような。。)
どうやって家賃払って、
髪型のお金とか化粧品、ネイルなど
やりくりしていこうかとても貧乏でしたが、
会社は、見た目に手を抜いたら、クビと言われていたし、
肌黒くなくてはいけなくて、
日焼けサロン代も友達が日サロで
バイトはじめてただ焼きさせてもらえるまで
かなり痛い出費でした。

 
実家も金銭的にもたいへんなときで、
それに親には短大でてから金銭面で頼るのは絶対にいやでした。


多くの人がそうだと思いますが、
大根、もやしをゆでたり、
卵掛けご飯、マヨネーズご飯、
ポテトチップス、お菓子ばかり食べて
食費を削っていました。


今思うといい思い出ですが。。



今回海外に出てきたときも、
何かあったときや、薬などの荷物を送ってもらうときのために
ある程度のまとまったお金を通帳に入れて渡してきました。


自分で貯めたお金が無くなったら
帰ってくるだろうって思っていたようですが、
もう1年半近く帰らずにいるからたぶんとても心配をさせてしまっているなぁと思いました。

でもアフリカ大陸をもう少し、
国のこと、人々の生活のこと、

見てみようと、ちょうど決めたときにきた
メールだったので、どうしようと悩みました。

「安全な町を選んで移動しているから大丈夫っ」てメールを
父親に返したら、

「そうか。さやかが安全っていえばそれなら安心だ。
実際現地に居るんだからね。
今、世界中何処に居ても危険が溢れてる。
世界中の宗教が 人の命の大切さを説いているのに
自国の利害で平気で殺しあってる
いつまでたっても世界の何処かで戦争してる。
お父さんは超強力な宇宙人が
世界を支配してくれた方がい いと思ってる。
パワーがあって世界のすべてを支配しても、
でも全ての命を大切にする
神様が現れて欲しい。
この無駄な戦争によって亡くなった人達…可哀想だよね。
それぞれの大事な時間は戻らない。
さやかも自分の信念にそって生きてくれ
安全で有意義な毎日を送れる事を祈ってる。 頑張れ」

ってメールが来て、涙が出ました。
 
こんな風にメールをくれる家族がいるだけで
私は本当にとても幸せだと思いました。

このメール読んだとき、
モザンビークの捨てられてしまった子達や
HIVや病気の子たちの施設で少しだけお手伝いしていて、
ここの管理の人たちは、

「HIVはにんにくやトマトをしっかり食べたら
HIVポジティブ反応が出た子が
HIVネガティブになってHIVが消滅するのよ。」と、真剣に話していて、
ここには他の国のボランティアの子達はいず、
私一人で「そんなことはないと思います。

薬が必要」と否定をしていて

苦しい状態のときだったから嬉しかった。

ビザの関係やイギリスの会社を手伝うために
別の場所に移動しなければ
いけなかったので、長く働けませんでしたが、
またいってみようと思っています。

父親からまたメールがきて、
「アフリカのその町並みとか
お金の価値(いくらで暮らせるとか食べ物の値段とか)
人々のは収入源は何かとか
どんな建物 どんな服装 価値観 習慣 教えて欲しい。
そうすればお父さんもサヤカと一緒に旅ができる」

みくしにそういったことも書いていこうと思います。
父親が娘のみくしみてるってなんか変かなと思いますが。


母は父から話を聞いているようで、
今ではただただ早く帰ってきなさいとメールが来ます。
 

| ボランティア | comments(0)

生まれた国の違い。

エチオピアの施設に
マッサラートっていってまだ若い
10代半ばのお母さんがいました。

マッサラートには、
小さな赤ちゃんがいました。

本当にかわいい赤ちゃんで、
私が抱っこして
「あーかわいいかわいい。
なんでこんなにかわいいんだろーっ」て
言っていると、

「ちゃらか、お願い。その子,
ちゃらかの国に
一緒に連れていって。
会えなくなっちゃうのいやだけど、
きっとちゃらかの国の人は
みんないいひとだから、大丈夫...。」

大きな透き通った目で、
まっすぐ私をみて、
いいました。

初めてされたこの質問に
私は、泣きそうになりました。

 
「ママと離れ離れになるのよくないよ。
この子にはマッサラートずっと必要だよ。」

っていいました。
 
「わかった。迷惑にならないように、ちゃらかの
おうちで一生懸命わたし、働くから。
そうじだって洗濯だって、
ちゃらかのすきなインジェラ
毎日上手に作るから。」

何て答えていいかわかりませんでした。
 
一緒にベットに座っていたワーカーの子が
私の様子を見て、
 
「マッサラートだめだよー。
ちゃらか、
日本に帰ったら、お仕事いっぱいで忙しいんだよ。
それに日本はしゃべる言葉が違うんだよー。」
って慌てたようにいって。
 
あとからワーカーの子が、
「ちゃらか、マッサラートね、
ディスチャージするように管理の人に
さっき、言われたばかりだったんだよ。」
って教えてくれました。
 
施設をでたら、どうやって
食べていけばいいのか、他に頼る人がいない
マッサラートはきっと悩んでいたんだと思います。
 
私は、結局は、何もしてあげられない自分の
立場がよくわかって、苦しくなりました。
 
でも、次の日、
マッサラートが笑顔で、

「チャラカー私、
ここで寝泊りして働けることになったの。」
っていってきました。

行き場のないマッサラートを心配して
ワーカーの子が
管理のかたにお願いしてくれたようでした。

私はもう、ほっとしてほっとして。

この施設では、ワーカーの子が、
病気に感染してしまっったり、
病気だったことがわかったりして、
次の日には、患者さんになって
しまったりしていましたが、
患者さんの子が、
ワーカーになったりも
していることがあるって
知ってすごくすごくほっとしました。

でも結局は、自分は何もできなんだなってこと。
思い知らされました。

働く場所がない。

エチオピアでは、
会社も企業もとても少なく、
国自体の収入も本当にわずかで、

日本にいたら、どんな風にこの子たちは
過ごせていたんだろう。

どんな風な職業につきたいって思うんだろう。
そのためにしっかり学校に通って。
恋愛もたくさんして。
映画にいったり、クラブにいったり。 喫茶店にいったり。
電車に乗ったり。お買い物したり。テレビみたり。


ただ生まれた国がちがったっていうこのことだけで、
薬も手に入らず苦しむ子たち、
ボロボロの体でよたよたして、物ごいしている子たち。
 
この子たちの未来には、何が待っていて、
どこにつながっていて、逃げられない現実を
一生懸命笑顔で受け止めている
この子たちが苦しくてたまりませんでした。

私の無力さにもいつも愕然としていました。
| ボランティア | comments(2)
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