ツオハイのこと。

ツォハイという30歳ぐらいの女性がいました。

彼女も末期がんでした。
 
彼女は股間におおきな腫瘍ができていて、
いつもたくさんの
膿と血がでてきていました。
 
最初のうちは彼女は
いつも手当てを嫌がっていました。
 
手当ての最中少しでも痛いと、
 
「もうやめて。 今日はもう終わり」
といって、
股を閉じてしまうことがよくありました。
 
またの腫瘍の痛みと重みで、
なかなか思うように歩けず
おトイレも、洗面器を持ってあげて
腰をうかせてがんばってベットの上で
していました。

ほぼ両足をまげて
開いたまま
ずっと寝たきりの毎日でした。
 
最初のうちは、私にいう言葉は、
何かがほしいときだけでした。
 
それでも、
私が少しずつ言葉を覚えてきたせいもあってか
色々話かけてくれるようになりました。
 
そこまで口数が多いようではなかった 
ツォハイだったけど、本当に時々
見せてくれる笑顔がとても素敵で笑顔を
見せてくれた日は私もすごくうれしい気持ちでした。
 
 
ある日、彼女が私を呼んで、
「お願い。どうしても  
外のお店で買った
白いインジェラと
ケーキが食べたいんだけど。
いい?」

っていいました。
 
原則として、何かを患者さんにあげることは
禁止されています。

ですが、あんまりに
具合が悪そうだったのでそういう時は・・
って許可がでていたので、急いで施設の外に
買いにいって、
 
「はい。ツォハイ買ってきたよーっ最初にどっち
食べる? インジェラ?ケーキ?」て
 
プレートにあけながら
いうと明らかに苦しそうで
 
「大丈夫?食べれるかな?」
 
ってゆうとゆっくり手でつかんで
一口インジェラをたべて、
一口ケーキを食べて。
 
それから

「見て。私の股間みて。チャラカ。」

っていいました。

毛布をめくって見てみると、
 
たくさん血が、
どすぐろい血の固まりが 
でてきていました。

どろって流れ出るようにでてきていて
足先まで黒い血でたくさんで。

本当に大きい固まりで
頭ぐらいの大きさでした。
 
私は一度、運ばれてきたばかりの患者さんも
この状態でお医者さんも何もできずに
亡くなっていってしまったことを
思い出しました。
 
止血止めの薬と、その血の固まりを取り除いて、
体をきれいにしてあげて、
急いで、点滴をして、
そばにいると、ただ苦しそうにじっと私を
みていて
話かけても返事、してくれませんでした。
 
もぅ夜遅く、 管理の人もいず、
ツォハイの子供がいる子供の棟に 
明日朝一番でいって
子供を連れてこれる許可をもらって
ツォハイのところにきてもらおうって思いました。
 
朝、早くにツォハイのベットにいくと
かなり弱っていて
呼吸が変わってしまっていました。
 
内線電話はないので、
急いで、子供を呼んできてって
近くにいたワーカーの子にお願いして、
私はその日、朝から病院に患者さんと
いかなくてはならず 
車が待っていたので、
でもツォハイの様子がすごく気になって
しばらく一緒にいました。
子供がくるまでそばにいようと思って。
はやく、はやく赤ちゃんきて、って
思ってました。
ツォハイが瞬きをしない目で
私の目をじっとみて
苦しそうに何かゆおうとしました。
 
でも聞き取れなくて。
そのあとすぐ、目を大きく開いたまま、
私の目をじっと見たまま、
もう動いてくれませんでした。 
  
最後にツオハィのたった一人の家族、
赤ちゃんに会わせてあげたかった。
それが出来なかった
自分が悔しくてたまりませんでした。

もっともっと早くにきて、子供連れてきて
あげればよかった。
 
後悔ばかりで、申し訳なくて
たまりません。
| エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

さなだ虫。

お腹が腫れ上がっている子達。
エチオピアには、
体全体はがりがりで本当に
骨と皮だけなのに、
お腹が出ている子がたくさんいます。

原因はいろいろなのですが、
その原因のひとつに、
マニストリッション(栄養失調)があり、
私も昔にテレビで
飢えに苦しんでいる人たちのニュースを
見たときに、
その体型をみたのを覚えています。
 
栄養失調になるといろいろな症状が体にでます。
そのひとつに浮腫のような症状があって
おなかだけが膨れ上がります。
 
施設にも、何人かの女の子が
体は骨と皮だけなのに、
おなかがパンパンに腫れ上がっていました。
 
さわってみると浮腫との違いは
わかるのですが、
テープワーム(さなだ虫)の子も何人か
いました。
 
テープワームは、浮腫よりももっと
お腹、風船みたいに、はちきれそうなほど
おおきくなります。
テープワームがお腹の中いっぱいにいて
いくらこの子たちが
栄養のあるものを食べても、
テープワームがすべて食べ尽くしてしまうため
その結果、体はがりがりにやせこけて、
テープワームがお腹の中で
大きくなるため、
本当にお腹がパンパンで
しゃがむのもたいへんなほどです。

この施設では、週によければ
1回お肉を食べれる日があります。
その前日、
どこからともなく牛が3頭やってきて、
殺されるのを待ちます。
 
エチオピアの牛はかわいそうなぐらい細くて、
お肉あるのかな、って思ってしまうほどです。
土曜日の朝、患者さんたちもたくさん
みんな見守る中、牛が殺されます。
 
最初は残虐でびっくりしたのですが、
そのお肉を煮込んで
次の日のみんなの大好きな
お昼ごはんになります。
 
数人の患者さんが、
残された殺された牛の皮や頭とともに落ちていた
肉片や皮の部分に少し残ってついている
お肉を手でつかんで口にいれて食べていて、
あーって思いました。
 
テープワームを体に取り入れてしまう
原因のひとつは、
殺したばかりの牛や、やぎなどを
そのまままだお肉が温かい、
血が滴っているうちに食べるからってきいて
いました。
 
口のまわりを牛の血で真っ赤にして
食べてて、

「だめー食べちゃだめー出して出してー」
っていって時々無理やり口の中から
取り出します。
 

日本にいたら絶対モデルだよーっていうぐらい
エチオピアの子達は本当にかわいい
きれいな顔立ちをしているのに、このギャップに
驚いてしまいます。
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悪霊のこと。

エチオピアの施設で
いつものように
夜、みんなの手当てを終えて、
自分の部屋に戻ろうとしたら
停電していた暗い廊下の椅子に
誰かが座って
すすり泣いているのがわかりました。
 
どうしたのかな・・って思って、
話かけてみました。
 
ブルトカンっていって
10代後半ぐらいの女の子でした。

「どうしたの? どこか痛いのかな?」
 
「痒いの。 痒くてたまんないの。」

っていいました。

ブルトカンは
すごくかわいらしい笑顔を
持っている子で、
いつもニコニコ
微笑んでいるような子でした。

「そっかーちょっと見せてね。」 

って見てみると、
ろうそくの明かりでもわかるほど
ぶよぶよになってしまった、
やけどのあとが
胸から足首にかけてありました。

胸が痒くてたまらないってゆって
がりがりかいていました。

痒み止めのオイントメントを
ぬってあげました。

やけどの跡はかなり時間が
経っているようでした。
 
別の夜、 患者さんに晩御飯を食べさせて
あげていたら、上の階ですごい叫び声がしました。

急いでいってみると、ブルトカンが
すごい声を出して、
泣き叫んで、暴れていました。
 
私はニコニコしているブルトカンの印象が
今まで強く急いで
周りにいた子に何があったかききました。

「ブルトカン、夜になるとときどきこうなるの。」

20人ほどがブルトカンを囲んで
体を抑えて、
鼻の穴ににんにくをいれて、
病室に掛けてあった、
エチオピア正教で
有名な人の絵の額縁で
ブルトカンの顔を
たたきはじめて
水を
思いっきりかけて、
みんなで殴っています。

私はただびっくりして
「何してるのー。だめだよー。
やめてー。やめてー。」

ってブルトカンの体をかばうと
今度はみんな私の体を無理やり引き離して
抑えて、

「チャラカ、いいの。大切なことなの。
ブルトカンの体には、悪霊が今入っているから
たたき出さないといけないの。」

みんなが真剣にいって、でも

「そんなことしたら痛いし、
ブルトカン、
余計暴れちゃうよ。
ただ、あったかいチャイ持ってきて
休ませてあげて。」

「チャラカこれが一番いい方法だから
おとなしくしてて。」

みんなに体を
押さえつけられながら 
すごく困惑しました。

ブルトカンは、昔、
突然自分の家にいたときに
レイプをされて、
その際に、
火がたまたまでたのか、
火をつけられてしまったのか
このひどいやけども負ってしまったようでした。

そのことが原因で、精神状態が不安定で、
混乱してしまうことがあるとのことでした。


こういう現実が
悲しくてたまりませんでした。
| エチオピアでのボランティア活動 | comments(2)

割礼のこと。

体から汚物をとったり、
尿管、肛門に器具を入れたりするとき、
それぞれのトライブ(部族)の
割礼のあとがわかります。

聞き慣れてない言葉だったので最初、
患者さんの各部分をみたとき
なんでこんなふうになっているのか
わかりませんでした。
それも患者さんによって、
全く違うふうで、
でもみんな痛々しいそうで
割礼の意味を知らない私は
なんだか複雑な気分でした。

アルマズという10代後半ぐらいの女の子がいました。
すごくかわいい顔立ちで、
いつも自分の1歳になる子供の話してくれていました。
彼女もHIVポジティブでした。

彼女も割礼の後がありました。
下半身が全く動かない体なので、
尿管にカテーテルを入れていたのですが、
カテーテルは時々、
炎症を防ぐために交換します。
彼女の割礼のあとは尿管の部分にもきていて、
カテーテルを入れるのが
だいぶ時間がかかりましたが、
なんとか挿入できました。
取り外しのときに、
中で、薬品でバルーンを作って
ぬけてしまうのを防ぐのですが、
そのバルーンの薬品を
ぬきっとて外す際、
私の不注意で尿が一緒に飛び出てきたりして、
思いっきり私の顔にかかって、
目の中、口の中にその子の尿が
はいってしまったり、
アルマズは全く悪くないのに、

「ごめんねチャラカ。ごめんね。ごめんね。」
ってずーと謝ってくれている子でした。

粘膜感染、何万分の1だけどあるってききます。

でも、それでもいいと、
この病気で苦しむみんなを知っているだけに
そんなこと軽はずみにゆっては
いけないのだけれど、
それでもいいと思っていました。
そう自然と思えてしまうほど、
あんまりにみんながみんなHIVポジティブなので、
自分が今まで普通にこうして生きていること、
自分の足で立っていられていること、
26年間生きてこれたこと、
家族がいること、これだけで
充分だったんじゃないかって思いました。

一度、エチオピア在中の韓国人の
男の子に会いました。
その男の子は、私に、
「失礼に聞こえたらごめんなさい。
そういう施設で働いて、
ポジティブの方と接して怖くないですか。」
ときかれました。

すごく不思議な感じがしたのを覚えています。

私にとって、ポジティブということよりも、
友達が苦しんでいるから
お手伝いしているだけな気がしました。

彼女の赤ちゃんが、ひきとってくれている近所のかた
と一緒に、一度だけ面会にきました。
いつも笑顔を絶やさないアルマズが大泣きして、
上半身だけが動く体で
一生懸命その子を
しばらく優しく抱きしめていました。

その赤ちゃんは、皮膚の感染症にかかっていて
髪の毛、眉毛もなく、
顔の肌もただれていて。

「早く一緒に暮らしたいよ。
どうして私の体こうなんだろう。」って

赤ちゃんが帰ってしまったあと
「悔しいよ・・。」って

動かない足を叩きながら
泣く彼女が
せつなくてたまりませんでした。

彼女の隣のベットの子、
ラフェルという女の子も
麻痺をしていました。

あるとき、ラフェルのベットに座って、
バナナをむいて食べされて
あげていたときに、
隣にいたアルマズが、

「ムース(バナナ) 落ちているよ。」

って教えてくれて、
それを拾ってアルマズのほうをみたとき、

少しだけアルマズの様子が
おかしいのにきずきました。

「アルマズ 大丈夫?」って声をかけると

「うん。大丈夫。チャラカ、
のどが渇いたから
お水と
あとブルトカン(みかん)が
食べたいの。食べさせてくれる?」

って言いました。

いつも自分でみかんをむいて食べる
アルマズが珍しいなって
少し頭をよぎったけど、
アルマズのベットに今度は座って、
みかんの皮をむいて
食べさせてあげて、

途中で、病室の外で、
誰かが叫んでいるおかしな声が聞こえて、

「ちょっと待っててね。」って
少しだけ外に様子をみにいって
少しして戻ったら、
アルマズの体も顔も大きな目も
もう固まっていました。
 
いつも呼吸でわかるのに、
このとき、アルマズの呼吸、
おかしかったのきずきませんでした。

「アルマズ、アルマズ、、、
まだ、みかん、
全部食べ終わってないよ。食べなきゃ。食べて・・。」

意味がわからない言葉を泣きながらいって、

アルマズアルマズって何回も呼びかけている
声で隣にいた、
ずっと仲良しだったラフェルも
首にも麻痺の症状が出て、
隣の彼女の姿はみることが
うまくできなかったからか、
きずいていたなかったようで、
私の声で異変にきづいたのか、
いつも隣のベットで二人で話しをして
励ましあって
いたお友達が一瞬にして
亡くなってしまったことで
彼女受けたショックはとても大きく、

自分で涙を拭くこともできない
彼女が我を忘れたように
おいおい泣く姿が
悲しくてたまりませんでした。

まだママの死を理解できない
アルマズの赤ちゃんのことを思いました。
亡くなったアルマズの体から
エチオピア正教の子がつけている、
黒いひもと木で
できている十字架のネックレスはずして、
アルマズの赤ちゃんに渡してもらえる
ように管理の人にお願いしました。

一度、若い女の子が亡くなりました。
その子には2歳ぐらいのやっと歩けるぐらいの
男の子の子供がいました。
その男の子は、同じ施設の子供の棟にいて、
1ヶ月に数回ママに会いに
きていました。いつも大きな声を出して
嬉しそうにお母さんと笑っていたのを
私も覚えています。
その若いお母さんもある日、
亡くなってしまって、
でもその男の子はいつもと同じように会いにきて
一生懸命同じ、お母さんのいたベットにきて、
違う患者さんが
眠っているのを不思議そうにみて、
しゃがみこんで、
ベットの下を見てお母さんを探している様子が
とても悲しくて。

こういう風にしてお母さんを
亡くしていってしまう子が
どれだけいるのかなって思うと、
胸が痛みます。

家族が誰もいないという子の悲しそうな
大きな目をみるたび、
ただ 私が家族だよ。なんて冗談まじりに
ゆうことしかできないけど
でもそれでも嬉しそうに私の胸から
ミルクを飲もうとするしぐさが
とってもかわいくて。
本当にずっと一緒にいたいなって
いつも思っていました。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(2)

HIVの血液検査のこと。

メロンというこの施設で
一番ぽっちゃりした17歳ぐらいの
エチオピアの子にしては
珍しく体格のいい子がいました。
いつもたくさん話して
たくさん笑って、
歌って踊っている子で、

私が夜、やっと手当てが終わって
他の患者さんに
ご飯を食べる手伝いや、
体をきれいにしてあげていると
いつも

「チャラカーマッサージ、
マッサージしてよぉ。」って全裸で
ゆってきていました。


「しょうがないなーっ
毎日はだめだからね。」てゆって、

時間の余裕があるときに
マッサージしてあげていました。

損傷もなく、きれいな肌で、
メロンはどうしてこの施設にいるのかな?
って思ってカルテを探したのですが、
HIVの疑いがあるとのこと。

HIVの血液検査をする日が決まって、
メロンが、

「私もしネガティブだったらお家に帰れるのー!」

って大興奮していました。

ちょー元気だし、
よく食べるし大丈夫なんじゃないかな?

って思っていました。

その検査の日がきて、
朝早く、検査をうけにいきました。

その日はちょうどその病室だけで
7人が検査にいきました。

7人のうちの6人、
ポジティブ反応がでてしまって
メロンも残念なことに
ポジティブでした。

メロンは、

「家に帰りたいよ!
なんで私がポジティブなの?
絶対違う。 なんでーなんでー 絶対信じない!」

号泣していました。

他の子たちも、ただただ
自分の体の中でおきてしまったことに
涙をたくさん流していました。

私はなんてゆったらいいかわからず

いつも無責任に「大丈夫だよ。大丈夫。。。」って
を繰り返すばかりで。

メロンが違う病院に移ることが決まりました。

あんなに元気だったメロンが
ずっと元気がなく
心配していたのですが、

病院にいく日、メロンが前の元気を
取り戻していて、
「私まだ若いし大丈夫。
がんばる。 チャラカ、バイバイ。」

って笑顔をみせてくれました。
これからこの子はどんな人生を
過ごしていくのか
不安に思うと同時に、
私にできることは、
ただ心配することだけで。。

これからもどうか
彼女の明るさがなくなっちゃいません
ようにって思っています。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(1)

老人のような女の子。

上の階の病室に、
ブルトカンとういう
20歳の女の子がいました。(エチオピアでも
人気の名前があって、
たくさんおんなじ名前の子がいます。すみません。)

窓のすぐしたのベットでいつ見ても
ぐったりしていました。


体は本当にやせ細って、とても小さく、
頭髪は抜け落ちて、肌はすべて干からびた状態の
ようになっていて、目はうつろで。
つばを自分で飲み込むのも辛そうでした。

あんまりにひどい状態で。

こういう子の場合、
本人もだいたいの自分の
年齢わかっていますが、
かろうじて
話してくれる小さな声のトーンで、
この子がまだ若いんだって
ことが私もわかります。

とても小さなかわいい声で、

「チャラカーお砂糖たっぷりの
あったかいチャイが欲しいの。」

ってがんばって声を出して教えてくれる子でした。

常にひどい下痢と、嘔吐をしていて、
自分で立ち上がる力がなく、
カルテには、
HIVポジティブの可能性があるため、
血液検査を
させるようにと指示がかいてありました。

いつもぐじゃぐじゃに下痢をしていて
布かえて。って自分からは言わず、
私がくるのをずっと待ってくれていました。
私が、
「排泄したあと、すぐ呼んでくれれば
布すぐ変えるからね。 気にせずいつでも
呼んでね。」
っていつも伝えていたのですが、

「チャラカ たくさんお仕事あるもん。
私大丈夫だよ。」

って答えがいつも返ってきて
本当に優しい子で。


私だったらすぐ変えて欲しくて
我慢できずにいると思うのに・・。

ドクターを探して、
ブルトカンがまだ血液検査を
うけにいっていないことを伝えました。

ドクターが、
彼女はもうすごく弱っていて、
みんなで持ち上げて
手伝っても、
もう車いすに乗っているだけの
体力すらないんだよ。
どうしようもないよ。
っといいました。

こういう子を見るたびに、
神様はどうして。。
っていつも思ってしまいます。

この子がふとした拍子に
私のおへそにあいている
109のショップで店員を
していたときに
強制的に開けさせられた
ヘソピアスをみつけて
触るのが好きな子でした。

この子と同じ20歳の頃、
私は何をしていたかなって思いました。

東京の短大って響きにあこがれて入った
卒業さえできればいいやーって感じで
短大にいって、
また響きにあこがれて
渋谷の109の人気のあった
ショップに就職して、
週3回日サロ通いが社訓で、
いかに黒くなるか、
次の髪のエクステはどんなのに
するかとか彼氏のこととか、
遊びにいくこと
ばっかり考えていて
自分の日常のことだけで、

死と向き合ったり、
貧しい国の人たちのこと
真剣に考えることもそこまで
多くなくて。

どうして神様はここまで
違う人生を・・
って思ってしまいます。

この子が何をしたってゆうんだろう・・。

ブルトカンは、
いつも私がグラブなしで
ブルトカンに触ろうとすると
どんなに苦しんで
痛がっていても
「チャラカ、グラブ グラブ 」
って私への感染を
すごく気にかけてくれて。

トルナシもそうでした。

トルナシも
口のまわりの損傷もひどかったため
言葉を出すときに痛みがあったのに、

でもいつも 「チャラカ グラブして。
チャラカに移っちゃう。」 ってゆって。

グラブがなくなってしまって
遠くの病棟にあるときでも
私がグラブ持ってくるのまっていてくれていました。


他の患者さんも自分の損傷部分からでている
臭いを気にして、

「チャラカマスクして、私、臭くてごめんね。。」って。

そんなときいつも、
「臭くないよー。私の頭のが臭いんだよー
こんなに長いくせにしばらく洗ってないもん。」
って冗談ぽくいったりしてました。

ブルトカンは、たくさん痛みに耐えて
がんばっていましたが、数日後、
静かに息をひきとりました。

亡くなった後のことは、
やっぱりわかりませんが、
天国があったとしても、
来世があったとしても
いつもいつも思うことですが、

たくさんたくさん苦しんで、
悲しい思いもたくさんした分、
どうかこの子たちが
たくさん笑顔で幸せでありますようにって
思うばかりです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

ペットボトルのこと。

エチオピアの施設をでてから、
自分が飲み終わった後のペットボトル、
捨てるとき少し心が痛みます。

施設では
みんな水道の水を
ペットボトルが支給されて
その中にいれて使っています。
そのペットボトルも
使い古しのもので
10年前から使ってたんじゃないかって
いうぐらいぼろぼろの
カビがたくさんの
ペットボトルをみんな大切に使っています。

自分の持ち物は
その支給されたペットボトルと
支給された靴だけの子が
多いです。

なるべくあんまりに恐ろしい
ペットボトルの子は変えてあげるように
自分や他のボランティアの子が
飲み終わった空のペットボトルを
集めていました。

アディスはどうだったか覚えていませんが、
他の町にいくと
ボロボロのペットボトルなのに
たくさん売られています。

みんなそれを買って水を入れたり、
大切に使っています。

ビニール袋も一緒です。
みんな、ご飯のときに具合が悪くて、
たべれなかったりすると
ビニール袋にあけて、
とっておいて後で食べています。

日本のビニール袋みたく
頑丈でいいやつではなくて
すぐ破けてしまう感じの
ものですが、
みんな何回も何回も洗って大切にしています。

破けてもその部分を
自分の髪の毛で上手にしばったりして使っています。

電車に乗っていたときも、
電車が壊れたり、途中の小さな駅で止まったりしたときに
電車の外にいるぼろぼろの服をきた
はだしの子供たちが一生懸命
「コッポーコッポー」って叫んでいて

「コッポーって何?」って友達にきいてみると、

「空のペットボトル、
みんな欲しがっているんだよ」
って教えてくれました。


エチオピアをもう出てしまったけど、
このペットボトルがあれば、あの子
喜ぶだろうなぁ・・。とか思っています。

マラゥイは意外に停電します。
エチオピア並かもしれないです。

でも町は思ったよりきれいで、
人も穏やかなかんじです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

ママのこと続きです。


ママはますますまわりを
気にするようになったのと同時に
痛みも増して、
少しずつものがうまく食べれなくなりました。

今まで食べれていた、
みんなと同じ食事をうけつけなくなりました。
何が食べたいともいわなくて、
手当ても1日に何回も何回もしつこくきいて
やっとさせてもらえる感じでした。

「食べたいもの何かある?」
ってきいてゆわれたものを用意するように
していました。
ヨーグルトや、コーヒーや、タッラ(エチオピアのお酒)。

「タッラを飲むと眠れるから。」
っていっていました。

でもあんまりにものを食べないから、
グルコース(点滴)をしようとしても
受け付けてくれません。
痛みがひどいようだったから注射のペインキラー
しようとしても受け付けてくれません。 

「ママー頑張って食べなきゃだめだよ。
私お手伝いするよ。」
なんでもいいから食べて栄養つけないと。」

あんまりにものを食べずにいて
体がどんどん細く細く痩せこけていくのが
1日ごとにわかるようでした。

毎日毎日、何回も何回もしつこく
ほしい物ききました。


「ママ、グルコースしないともうだめだよ。
お願いだから。」

っていうと私の手をとって、
ママのやせこけたお腹をさわらせて、

「こんなにがりがりの私に
どうして針なんて刺せるの?」

「でもママ、お願い、
何か食べなきゃだめだよ。お願いだから。」

「なにがいい? ケーキ? シュロ?
チョコラータ? なんでも買ってくるから
お願いだからいって」

私が泣きながらいうと、
毛布の中から、
「ちゃらか、お願い。殺して。」

って返事が返ってきました。

あんまりに弱って衰弱していくママが
悲しくて悲しくてたまりませんでした。

ママが自分で体を動かせなくなりました。

もう2週間近く、
しっかりしたものを食べていず、
水を1日何回か飲む程度でどんどん
弱っていくのが苦しいぐらいわかりました。

いつもお手洗いには
頑張っていっていたママがお手洗いもいかなくなって、
ベットの下においてある洗面器をとって
毛布の中で用を足すようになりました。

毛布の中に話しかけても返事がありませんでした。

「ママ?大丈夫?」

ってゆっくり毛布をめくると
口元をもう気にせず
そのままの格好で
苦しみきった目をして、
宙をみてました。

ゆっくり私の目をみて
何かゆおうとしているのだけどもう言葉に
になっていませんでした。

汚物のにおいがしたので
お湯を汲んできて、体をきれいにしてあげました。

あんまりに、体ががりがりで
がりがりですべての骨が浮き上がっていて。

肛門でつかえてしまっていた汚物、
自分の手で抜き取ろうとしたのか、手も
汚物だらけで。

きれい好きなママが辛かっただろうなって思って。

丁寧に体ふいてあげて、
爪の中につまった汚物もとって。
ベットもきれいにして。
血と、膿とよだれでいっぱいになった首のまわりも
きれいにして。
きれいな布、マスクを用意して。

ママはもう何もゆおうとしませんでした

ただただ、私が声を立てずに泣くのをみていました。

同室の患者さんたちもみんな心配そうにみていました。

次の日の朝、
ユリガラムが私を待っていてくれて、
泣きながら私にハグしてくれました。

「ママ亡くなったの?」
ってきくと、

「うん。でも今はきっと大丈夫。」
って泣き声でいいました。


いつも、私がママのそばを離れて
別の病室にいこうとすると、
毛布の中から手を一生懸命伸ばして、
私の白衣を引っ張って

「どこにもいかないで。この病室の中にいて。
チャラカの声が聞こえるだけで安心するから。」

まだそこまで具合が悪くなかったころに
よくいってくれた
あったかい言葉が今でも忘れられないです。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

エチオピアのお年寄りのこと。

エチオピアでは、平均寿命が40〜50歳ぐらいと
いわれています。
実際、本当のところは誰にもわからないような気もしますが・・。

でもやっぱり、施設でも見た目は老人のようでも、
若い子がほとんどで、
50歳以上のかたはほとんどいないのが現状でした。

でも、二人だけかわいらしいおばあちゃんがいました。
エチオピアでは、おばあちゃんのことを
みんな誰のおばあちゃんでも
「ママァ」って呼びます。( 40歳過ぎるとママァになります。)
その二人のおばあちゃんは
もちろん自分の年齢は知りません。
一人のおばあちゃんは、痴呆がでてきて、
いつも一人で話をしています。

「ママー、デナデラチュザレカヌゥコンジョーノ」
(おばーちゃん、おはようね。今日良い天気だねぇ。)
って話かけると、
「そうかね。私にゃー関係ないね。 おなかがすいたよ。朝ごはんちょーだい。」
って日本のおばあちゃんのように、
ご飯たべたすぐあとでもお願いするのが
いつものかんじでかわいらしい感じでした。
身体が全身麻痺していたので、
床ずれが起きないように、
プリベンションパウダーを
いつもパフパフしてあげていました。

もう一人のママ、
アスカママはおおきな床ずれがあり、
そこが炎症を起こして
背中の真ん中からおしり、
肛門のまわりまで皮膚がただれてしまって、
たくさんの膿とおしりの部分は
骨がみえてしまっていました。
皮膚が腐ってバクテリアが
たくさんになってしまっている部分は、
メスで切り取ります。
あまりに範囲が広いので
手当てもすごく時間がかかりました。
私が手当てにいくと、
必ず一瞬にして狸寝入りをします。
それがかわいらしくてたまりませんでした。
私がメスで皮膚切っているときも
平気で排泄するような感じの男前な感じのママでした。

ワーカーの子が
「アスカママー チャラカのことすき?ってきくと、
チャラカはすきだけど、
メス持ったチャラカは、
注射みたいに痛いからやだ。」

って溜め息まじりに答えたり、

「ゴールドが欲しい おくれっ」といったり

私の髪の毛をひっぱって
「これちょーだいっ」て
ゆったりするようなおちゃめなかんじのママでした。

エチオピアがイタリアに数年間だけ
占領されていた時期になにか
かかわりがあったのか、
イタリア語が少し話せるようで、
いつも私のことをセニョーラって
呼んでくれていました。

あるとき、アスカママのところにいくと、
私の顔を見るなり、
嘔吐しました。
アスカママが吐いちゃうのなんて
珍しいからどうしたのかなって
思って、服を着替えさせてあげて、体を拭いてあげて
ママ調子悪いのかな?って思って
話しかけても元気がなく心配になりました。

でもやっぱり次の日の朝、
亡くなってしまいました。
もう一人のママも数日後亡くなりました。
二人とも体を自由に動かすことが
完全にはできませんでしたが、
ベットが隣同士で、
いつも二人で見つめあっていたのが
印象に残っています。


亡くなるときにそばにいてあげることは
できなかったけど、
今までこの国で長く生きてこられた分、
色んな辛い現実もみて経験して
こられたんだろうなって思いました。

大嫌いだったカテーテルも
治療も注射も終わって今は、
ゆっくりされているといいなと思います。
栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)

施設を出るということ。

この施設の男性の棟は、ベットの数が足りず、
ベットがずらっと並ぶ病室で
床に眠ったり、50人ぐらいのかたは、
棟の外の屋根だけはある場所で眠っています。

アディスは標高が高く、
日中の強い日差しがなくなると
夜は一気に冷えるため、
みんなからだを寄せ合って眠っています。

それでもここには、
寒さをしのぐ毛布も、
あと食料も豪華ではないけど1日三食あります。

ディスチャージしてしまうと、
また路上生活に戻るだけの人がほとんどです。

女性の病棟は、
1つの小さなベットを2人で使ったり、
床で眠ったり
してみんな生活しています。

メロンという13歳ぐらいの女の子が、

「私今日、ディスチャージ(退院)するの。
チャラカ色々ありがとうね。バイバイ。」
っていってきました。


メロンは、HIVポジティブだったけど、
まだ発症前でした。

「メロン、家族はいるの?お友達は?
 眠るところはあるの?
ここにもう少しだけでもいいから
いたらどうかな?」
ってきくと、

「誰もいないけど、仕事に戻りたいの。」
っていいます。

彼女の仕事もやっぱり体を売ることでした。

何度も何度も、聞く私にメロンは、最後に

「チャラカー心配しないで。
これがね、私の人生だから。」っていいました。

なんにもしてあげれない自分に呆然としました。
13歳の女の子が 「自分の人生だから。」って
つぶやいたことが
なんだかすごく悲しくてたまりませんでした。


人はなんのために生きていくのかって考えると、
苦難を乗り越えていくために生きていくんだと思う。


って本にかいてあったのを思い出しました。

でもここにいる子達は
乗り越えていかなくてもいい苦難を、
一生懸命乗り越えて
いる気がしてなりません。

栗山さやか | エチオピアでのボランティア活動 | comments(0)
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