昔の知り合い

 

 

昔10年ぐらい前に

キリスト教の布教できているオーストラリア人の一家と

この町で知り合いました。

 

このご家族は5年以上前に

モザンビークのもっと栄えている都市に

引っ越していったのですが、

先日ちょうど数日だけこの町にまた戻ってきていて

共通の友人のブラジル人のお宅で会いました。

 

最後に会ったとき、

11、12歳ぐらいだった男の子は

すっかり青年になっていました。

 

この男の子が12歳ぐらいで

大きなバイクに普通に乗っていて

驚いたことを思い出しました。

(当時バイクに乗る年齢制限の法律がまだなかった)

 

このご家族は、15年近くモザンビークにずっと暮らして

布教活動をしています。

 

昔話や、国などについて

一緒にご飯を食べながら話しました。

 

「何がこの15年間で変わったと思う?」と聞くと、

 

「大きな都市に住む金持ちはさらに大金持ちになり、

 貧しい人は全く変わらず貧しいまま、

 あるいはさらに貧しくなっていると思う。」と。

 

その大金持ちになった人たちの一部は、

国際援助で来ているお金の使い込みのおかげと

いうこともとてもよくあることです。

 

色々考えてしまいます。

 

 

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(5)

色々な生き方

 

 

モザンビークの別の州で十年ほど前に知り合った
イタリア人の方が
亡くなったと聞きました。


彼はイタリアから
内戦直後のモザンビークに来て
亡くなるまで数十年、モザンビークで

キリスト教の布教に努めていました。


彼が亡くなってしまった原因は、
車の修理を修理屋さんにお願いして、
その車の少し前で立ち話をしていたら
車が突然動き出して
ひかれてしまい亡くなったと聞きました。

とてもショックでした。


奥地の村の病院で

ボランティアさせてもらっていたときに知り合った方で
とても穏やかな雰囲気を持っていました。


教会で聖書、神様の教えを説くこと以外にも、
時間を見つけては、
電気もまだ来ていない村々の小さな病院を訪ねて、

入院している人々一人一人のベットで、話を聞き、
一人ずつにそれぞれ静かに祈りを捧げていました。


苦しんでいたり、悲しんでいた患者さんたちは
とても穏やかな顔になり
一緒に祈りを捧げていて。


病気で苦しく不安でたまらない中、
彼の祈りで心が救われた方々が多くいらっしゃったと思います。


大きな活動でなくても、
彼のように、一人一人の心に寄り添うような、
色々な形のサポートがあって、
様々な生き方があるんだなと
とても心に残りました。

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(2)

友人の言葉

 

昔、協会アシャンテママを始める前、

10年ぐらい前になると思いますが、

テテ州(モザンビークの北西部)にしばらく

住んでいたことがありました。


インド人の友人の会社少し手伝ったり、

町のはずれにあった孤児院や村の診療所で

ボランティアをしていました。


このときに一緒の敷地内に住んでいた

今でも連絡を取っている

パキスタン系モザンビーク人の友人がいます。

 

この地域は、一番暑い時期、10、11月頃になると

気温が45度近くまでになっていました。


住んでいた場所は、

町中だったので電気は通ってましたが、

そんな暑いのに当時はよく停電して

せっかく貸してもらった扇風機が使えなかったり、

(使えても熱風がくるだけで意味がなかったりでしたが。。)

よく断水もしてしまっていて、

体を洗ったり、体を冷やすための

水浴びもままならず暑くてたまらない日々でした。


この友人は、イスラム教を信仰していて

イスラム教の教えの断食月のとき、


「暑くて体が干からびそうなのに、太陽が沈むまで

水も飲めないからとてもとても辛いよー。」と

よく言っていました。


彼女は家族は、代々イスラム教一家でしたが

彼女と彼女のお兄さんは飼っていた犬を

とてもかわいがっていました。


イスラム教では、犬や豚などは不浄の生き物のようで、

犬は基本、強盗泥棒対策の番犬で、

普通みんな触ったりはしないので

とても嬉しい驚きでした。


この兄さんは、

犬も暑いだろうからといって頻繁に体を洗ってあげていて

犬の頭をなでたりするような優しいお兄さんでした。

 

そのお兄さんが突然マラリアで亡くなってしまいました。


二人の両親は昔に亡くなっていて、

長いことお兄さんとずっと二人暮らしていた彼女の

悲しみはとても大きく、何て言ってあげていいか

わかりませんでした。


私が別の州に移り会えなくなっても頻繁に

電話で連絡を取っていました。


私が励まそうと電話をするたびに逆に、


「寂しいけど私は大丈夫。

さやかこそ大丈夫なの。

大きな組織からの派遣でもない外国人が一人で

現地でも貧しい層の人々と活動しているなんて、

本当に気をつけて。」といつも心配してくれていました。。

 

彼女が、


「人生はきっと一冊の本なんだろうね。

一人一人が神様から1冊の本を受け取り、

ペンだけがあって、人生を(書き)進めていくの。

何を書くのも(経験するのも)自由だけど、

消しゴムも修正液も無くて、起こったことは消せないの。」


そう言っていたことを思い出します。


この間、

「今日は、亡くなったお兄さんの命日だったんだよ」って

電話がきてふといろんなことを思い出しました。

 

 

テテ州の集落の写真

 

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(2)

何気ない言葉

 

 

数年前までモザンビークに住んでいたインド人の友人がいました。

 

 

彼はインドの裕福な家庭出身で

インドの資源会社(宝石、石炭など)で働いていて、

その関係でモザンビークに数年間住んでいました。

 

 

彼はいつも四駆の大きな車に乗り、現地のスタッフを連れて、

ブッシュの中によく資源調査のために行っていました。

 

 

その時にモザンビークの貧しい村の人たちの生活を

よく眺めていたようでいつも驚いていました。

今はインドに戻り、大きな都市にあるオフィスで働いています。

 

                                                                                                                                 

彼が

 

「ねぇ、僕たちって変な世界に生きていると思わない?

多くの貧しい子供たちは、

食べ物や水を得るためにやせ細った体で何キロも日々歩いていて、

多くのお金持ちの人たちは、食べ過ぎてしまって

ダイエットのために何キロも歩いたり。

変な世界だね。」 と。

 

 

深い意味もなくただ何気なく言った一言だったんだと思いますが、

なんだか少し心に残る言葉でした。

 

 

 

写真 モザンビークの夕焼け

 

 

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(5)

スイスに住んでいる女性

 


以前、モザンビークの首都ににいたときに
泊まっていた安宿で
スイスに住んでいるという女性と一緒になりました。

 

ビーチサンダルが壊れちゃったから
新しいのを道端で売っている子から買ったと
話していました。

 

「300円だと言われたんだけど、
でもその男の子、ボロボロの服着ていて
しっかり接客してくれて、
お釣りはいらないって700円払ったの。」

 

私と一緒に話を聞いてた欧米系のバックパッカーの人が

 

「えーそんなことしたら外国人はいいカモだと思われて、
次から外国人みたらその値段で売り始めるかもよー。」って言いました。

 

その女性は、

「しっかり接客してくれたし、チップみたいなものかな。

それに、それもしょうがないんじゃないかなって
言うぐらい所得の差があるよね。

 

私は、休みをとって飛行機に乗って別の大陸の国に行ける、

この子は、ボロボロの服を来て
道端で大切そうに数足のサンダルだけ並べて売っている。

 

私、スイスにずっと住んでいて、
仕事にもつけて何カ月か節約をすれば
旅行も行けるようになったの。

 

でももともと私も私の家族も

トルコで政府に虐げられた民族出身、
宗教を信仰していて、小さいころに難民として
スイスに受け入れてもらえて今があるの。

 

自分たちも困ったときにとても助けられたから、
だからどこかで誰かが少しでも普段より
いい食べ物、買えたらいいなぁと思って。
ただそれだけ。。」と教えてくれました。

 

私はそういうことについて
もんもんと考えてしまうことも時々ありましたが、
この話を聞いて単純になんだか心が温かくなりました。

 

 

 

写真 首都の道端

さとうきびジュース売りのかたと

手動絞り器

 

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(3)

北朝鮮の医師のみなさん

 

 

※ 知り合った北朝鮮の方々とのことを書きましたが、もしかしたらその方々が

北朝鮮に戻られた後に何か問題になってしまう可能性もあるのではとアドバイスをいただき、

以下のブログの内容のいくつかを削除させていただきました。

 

+++++++++++++++++++++++++

 

北朝鮮は1975年にポルトガルからモザンビークが独立する前から

支援をしていてモザンビークと関係がなかなか深い国の一つです。

 

今年に入ってから悪化している襲撃などに対応するため、
中国軍、ベトナム軍だけではなく、北朝鮮の軍事専門家も
モザンビークにきていると言われています。

 

少し前には、北朝鮮の外交官がモザンビークのサイの角、象牙などを
密輸をしていて捕まったというニュースもありました。

 

北朝鮮からモザンビークに派遣されている医師の方々は、
3年ごとの契約で交代で派遣されているようです。
子供は連れてこれないけど
結婚している場合は奥さんは連れてきていました。

 

北朝鮮の方々は見た目が日本人にやっぱり似ていて
アフリカの人々の中にいると、
自分にそっくりなので親近感がわきます。

 

この北朝鮮のお医者さんとその奥さんたち10人ぐらいに
初めて知り合った時の第一印象はあまりよくありませんでした。

 

自己紹介をした際、
「日本人です」と言うと

 

「君は日本人かい。 日本はアメリカの犬だからね」と
いきなり言われてしまい。。

 

みなさんの上着の胸元には、将軍様のバッチがつけてありました。

 

片言の日本語をみなさん知っていて、
「我々は〜」など知っている日本語を教えてくれました。

 

病院で実習をしていた頃、グループ全員で病院に忘れものをしてしまったときは
わざわざ医療学校まで来て、「忘れものだよ。」と持ってきてくれた
北朝鮮の医師たちもいてなんて優しいんだろうと

モザンビーク人のクラスメートたちと感動しました。

 

今回、モザンビークに来たことが、
初めての海外で、なにもかもあまりに違ってびっくりしたそうです。

 

一緒に大きなお祝いごとに呼ばれていったときも
林家パー子さんみたいに写真パシャパシャ撮っていて

モザンビークの人たちとみんなで踊ったりして
すごい陽気なご夫妻でした。

 

おいしい北朝鮮の料理を作ってくださったり、

お宅に遊びに行って私が帰るときも、いつも家の前の道まで出て、
私が自転車こいで見えなくなるまで手を振ってくれて

見送ってくれてとても優しいご夫妻でした。

 

 

今は無事に北朝鮮に戻り、
3年ぶりにご自身の子供たちに会えて、

わいわいされているんだろうなぁと思います。

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(12)

女性のこと。

モザンビークは、
ポルトガルからの独立のときや内戦のときも
女の人たち子供の子達も銃を持って戦っていて、
たくさんの女性たちも亡くなってその慰霊の意味もあって、
4月7日は女性の日で、大きなお祝いの日です。

この日は、旦那さんや彼氏は 
布(アフリカの女性が腰に巻いて
履いてたり頭に巻いてるはではでなやつ)をプレゼントします。

モザンビークでは、一夫多妻の家庭や、奥さん以外に
たくさん彼女がいるのは当たり前でなので、
そこまで余裕がない男の人は、布を買ってあげられなかったり、
一人の奥さんにだけ買って他の奥さんには買えなかったり。

道端で殴り合いの喧嘩を男の人と女の人がしているのみました。
結構過激で、女の人が
「あの女には布、買ったくせに私にも買え一」って
男の人殴りまくってました。

毎年この日になると、
けがをした男の人と、女の人がたくさん病院に運ばれてきて、
あと小さな町なのに殺人事件も
この女性の日になると毎年起きていて、
女の人が男の人を殺してしまったり、
男の人が女の人を殺してしまったり。
殺してしまった原因は布を買ってもらえなかったから。(200円ぐらい。)

怪しい薬を使ったり、黒魔術だったり、殴り殺したり、
あと今年のこの日、
うちから歩いて30分ぐらの隣の地区で
男の人が殺されて、
たくさん殴られた奥さんが旦那さんが眠ったあと、
旦那さんの性器を引っ張って
殺してしまったって聞きました。

男の人の性器を思いっきり引っ張ると男の人亡くなるようです。 
死因は、性器を引っ張られたため。になるそうです。

それって本当?って聞くと誰に聞いても本当だよ。危険だよって。
男の人の性器は、心臓と一緒だからって。

6月にある子供の日も、
旦那さんが別の奥さんとの子供にだけ何か買ってあげたり
お料理するじゃがいも買ってあげたりして、
別の奥さんが嫉妬して大喧嘩、外でしてたり、
この日も同じで毎年この町で殺人事件が起こるって聞きます。

北部のモザンビークでは正式に結婚している人は本当にまれで
ほとんどの場合みんな普通に一緒に生活したりして子供もいるけど、
男の人は別の女の人もいてその女の人との間にも子供もいて。

HIVが広がる理由とアフリカが貧しい原因、
こういうことにもあると思います。
旦那さんみんなを養っていくだけの
金銭的余裕がないから
旦那さんが逃げてしまって、残された女性、子供たちとても多く、
みんな生活に困っています。

女の人が一人でお金を稼いで生きていくのは
ここでもすごくすごく難しいので
みんな一夫多妻でもいいから
少しでもお金の余裕のある人の奥さんや
彼女になりたいっていいます。
でも子供ができたら捨てられてしまったり。
そしたら女でひとつで子供を育てていくのはすっごく難しいので
売春で生計をたてるようになって。

みんなおおやけにはしないけど、
村なんかでも、食べ物がなくてお腹がすいて
すぐ近所や隣のうちの男の人に体売って
食べ物分けてもらう生活を続けている女性もだいぶいて。

その売春のお金も、町でおしゃれな格好している女の子達は
1回200円ぐらい。コンドームなしだと、400円。
でも他の子たちは、お砂糖一袋(80円)や主食の粉少し
をお金の変わりにもらったりしているようです。
5MT(20円ぐらい)だけだったり、殴られて何にももらえずだったり。

アフリカに限らず、モスリム圏の国、発展途上国の国、
女性の立場はとてもとても低いと思います。

モザンビークが国自体は他のアフリカの国と比べても、
資源とかあるし、なかなかお金持ちなのに、
いつまで経っても貧しい苦しんでいる人たちが減らない理由、
きっとこういう昔から全然変わらない女性の立場が
あるんじゃないかなって思ってしまいます。

うちの近所のお宅です。
栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(3)

体を売るということ

エチオピアでは売春をする場所になっているブンナベット
と呼ばれている売春宿がたくさんあります。
そこで働く女の子達。 早い子は10歳ぐらいからと聞きました。
生きて行くために体を売って、相場はどこで働くかにも
よるけど、だいたい安くて2ブルから30ブルぐらい。

2ブルじゃこっちでも、主食のインジェラも食べれません。
バスには4回乗れますが。


2ブル。 日本円で27円ぐらいです。

売春してHIVになってしまってここに運ばれてくる子達。
ほとんどの子は 首都のアディス出身じゃなくて、
エチオピアの首都から遠く離れた山岳地帯や村の子達。
出稼ぎのためにアディスに出て来て
学校にしっかりいけなかった子がほとんどだから
読み書きができないのもあって思うように
仕事がみつからなくて、
売春宿で働くようになって、、と聞きました。

家族がいたとしても電話や住所をもたないから、
自分がバス何日か乗り継いで帰らない限り
連絡のとりようもない。

帰りたくてもバス代はそう簡単に稼げるお金ではないから。
帰れたとしても、仕事がなくて。。

ここに運ばれてきて、
数時間で息を引き取ってしまう子もいます。


「死にたくないよ。恐いよ チャラカ。助けて」と言って、
そのまま亡くなっていってしまう子もいる。
「アイズシシっ(大丈夫だよ。
安心してね。みたいな意味)」と、何回も
何回も言って、体をきれいにして、顔に手をあてたり
しばらくそばにいて手を握ってあげて。
私の自己満足かもしれないですが、それでも・・って思って。

私はここにきて、体調を崩して具合が悪くてたまらない日もありましたが、
手当て休むことはできないから夜とお昼休憩のとき少し横になれる程度だったけど、それでもその瞬間
苦しくて、でも私の場合は数日の痛みで終わって、
でも患者さんの場合はこの何千倍の苦しみが、
毎日続いて、いつまで苦しみは続くのか見えなくて。

少し私の様子がおかしいってきずいた患者さんに
[チャラカ?どうしたの?大丈夫??]
てハグしてもらえるだけで嬉しくてあったかい気持ちに
なれて。
だから250人以上いた女性の病棟だったけど なるべく
みんなの肌に毎日ふれてあげるようにしていました。


先進国にいたらHIVウィルスに感染しても薬を毎日投与すれば、
発症を遅らせること、
HIVではない人のように60歳や70歳まで生きれる
可能性もとても高いとのこと。
エチオピアでは、みんな栄養不足でもあるし
そんな高価な薬を手にいれることは難しいのが現状でした。


「ここの施設に運ばれてくるだけまだ運がよいほうだよ。
みんなたくさん苦しんで、そのまま山の中で死んじゃうもん。」
ってぼそって現地のワーカーの子がいった言葉が
悲しかったです。
 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(0)

思うこと

毎日朝から夜まで休みなく働いた施設。


ここに来るまで、ここでボランティアをするのが目標と思っていましたが、

実際、働いてみたら
恐くて、自信がなくてすぐ施設を出てしまうのではないかと、自分に自信が全くありませんでした。

でもこの経験で、自分の弱さ、ずるさ、汚さとも向き合えました。
向き合えただけではだめなのですが、自分の将来の夢、やっと見つかりました。

とても時間もかかるし相当努力しないといけないのですが、
できない。は言いたくないので、チャレンジしてみようと思います。
夢が叶うのは何年後になるかわかりませんが・・。

27年、生きていることがどれほど奇跡で健康であることがどれほどありがたいか
私よりまだ若いみんながどんどん亡くなっていってしまう中で、
生きていくことについて考えさせられました。
夢を持てるだけどれほど幸せなことか。


生きていくことの難しさ、生きていることのありがたさ。
改めて教えられました。

物質的に豊かでも自殺者やうつ、心の病のかたが多い日本だったり先進国。
貧しくても笑顔のある毎日の国。
貧しいことは不幸ではないと思いますが、私が不幸だと思うのは、
貧しいが上に、飢えに苦しんだり、病気になったり、死を待つしかすべがなく、
生きていく上で、
選択権を持てない人々。

誰かの言葉で、幸せというのは、朝自分で服を着れること。
と聞いたのを思い出しました。

 

何が幸せかは一人一人が決めることですが、
暖かいベットと食べるもの、飲むものがあって、話を聞いてくれる人がいて。
最低限の幸せなのかもしれないけどとっても大切ですよね。

なんだかよくわからない文章ですみません・・。

今は エチオピアのアディスアベバから、バスを国境まで乗り継ぎました。


ケニアとの国境の街で、過酷なんじゃ。。といわれていたタンクローリーの荷台に

一緒にエチオピアでボランティアしていたオーストラリアの男の子と二人で29時間かけてきました。

 

かなりの埃まみれで荷台は、現地の人達で
あふれかえっていて、ぎゅうぎゅうの荷物になった気分でしたが、
思ったより大丈夫でした。

逆に景色も夕日も朝日も星空も見れて。


いつもいい景色を見れたときは、亡くなってしまった日本の親友、
エチオピアで亡くなっていってしまった患者さんたちを想います。

ケニアのナイロビは危険だっていわれているけどなんとなく
エチオピアからくると久々の都会で、少し嬉しいです。
なんでもそろっているし、エチオピアとはまったく街の雰囲気も
人々の雰囲気もがらっと変わります。

ずっとエチオピアで自分のだらけた時間(といってもネットゆっくりしたり、ぼーとしたり)
がもてなかったので、ナイロビでのんびりしようと思います。

 

栗山さやか | 色々な国の人々 | comments(0)
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